一団塊の世代の憂鬱
子供のころに住んでいたのは大阪と京都を結ぶ京阪沿線の守口という町でした。
地名は大阪の守り口にあたることに由来していますが、 江戸時代には少し京都寄りの枚方から船にのって淀川を下れば守口を素通りして大阪へ入れたので守り口としての役割は小さかったように思えます。
町の北側には一級河川の淀川がながれ、台風のころにはよく支流が氾濫して浸水したため蓮根畑がひろがっていました。
あちこちに水路がめぐらしてあってそこでは鯉がよく釣れました。父親と釣りに行くと帰りに農家と交渉して鯉と蓮根とを交換したものです。
家のそばの田んぼでは、農家が馬を使って耕していたので道にはよく馬糞が落ちていました。それにロバのパン屋も糞をおとしていきます。
当時は農家が家々をまわって下肥を集め、それを畑の隅にある肥溜めに入れていたので馬糞を見つけてはそこへ放り込みました。
この肥溜めのありかについては熟知していましたが、あるときうっかり落ちてしまって母親にえらく叱られました。小川に入れられて頭から水をかけて何度も洗われた記憶があります。
大阪の郊外とはいっても十分田舎の風景が広がっていて、田んぼでイナゴやドジョウをつかまえたり、ため池でザリガニをつかまえたりして日が暮れるまで遊んでいました。
家は四畳半と六畳に小さな台所がついた長屋暮らし。狭い玄関にはセキセイインコや文鳥の飼育箱が所狭しと置いてあり、裏庭にはウサギと犬がいました。
ちょうど日本が占領統治から独立して5、6年後の昭和30年代前半の話しです。
人々の多くは貧しいながらも正直で清貧という言葉が似合う暮らしをおくり、どの家庭でも靴下や服が破れると母親につぎあてをしてもらって使い続けていました。
また、子供のころに近所にいた御隠居さんはほとんどが明治うまれ。痩せてはいてもかくしゃくとしていました。戦争の話はあえて避けていましたが、ご隠居さんたちの戦争は日露戦争でした。
祖父も日露戦争に軍医として従軍したらしく、わが家には旅順陥落と彫りこまれた三八式歩兵銃の薬きょうによる火箸がありました。
また父親は太平洋戦争末期に召集を受けて和歌山県の海岸で塹壕を掘っていたようで、飛来したグラマンに機銃掃射されて逃げまどったといいます。
叔父は軍医として南方に出征してニューギニアで捕虜になったといって戻ってきました。
各家々では戦争を体験した人たちがいたので子供の躾は家父長制に基づく厳しいものがあり、働く父親の食卓にはトンカツが並んでも母や自分には目玉焼きと漬物だけ。それが当たり前の世界でした。
そうした家庭の子供たちはベビーブームといわれ、今では団塊の世代とよばれるようになりました。終戦から占領統治下に生まれた世代がそれにあたります。
大阪郊外の小学校でも部屋にぎっしりと机をならべて一クラスは50人を超え、多くの場合2 , 3人は廊下に立たされて窓から授業を受けていました。
下校する校門の横では時折、業者がヒヨコを売っていたり、家に帰ると紙芝居がやってきたほか、七のつく日には国道沿いに夜店がでて賑わいました。質素な暮らしながら時間がゆるやかに流れる日々でした。
それが中学生になったある日、家の前に広がっていた田んぼや畑、ため池、空地が次々と埋めたてられて広大な敷地の松下電器の本社が出現したのです。
併せてその周辺では水路に蓋がされ道は舗装されて瞬く間に住宅地が広がって、ぼんやり歩いていると家に帰る道を間違うほどでした。
のんびりと散歩したり、縁台で日向ぼっこしていたご隠居さんたちは家に入ったきり姿を見せなくなりました。
世の中では消費は美徳とかいわれ、継ぎはぎの服や靴下を使うことはなくなり、ゆたかな暮らしになりました。
が、同時に自分のふる里が無くなったような気がしました。
山とか海とか人が手を入れても変わらぬ景色があってふる里なのだろうと思ったのです。
その点では、いま住んでいる道後温泉に近い旧北条市は背後に高縄山がそびえ目の前は斎灘(いつきなだ)のいう海に面して変わりようのない景色が広がっています。
さいわい、田畑も多くが残っていて子供たちはその中で育ちました。
彼らには時間がゆるやかに過ぎる故郷が今も残っていて、この一点に関しては誠に良かったと思います。
ただ、戦争を体験していない世代が親になり、家父長制への反動から新たな父親像を模索しましたが、小さいころの経験は体に染みついていて思ったようにいかなかった気もします。ですから子供たちから批判があれば甘んじて受けたいと思います。
戦後の貧しい時代から急激な高度経済成長期、さらには失われた三十年という経済の停滞期と激しく変わったなかで、どこかで何かを置き忘れてきたような気がしています。
それが何なのか自分でもよくわからないので、妙に憂鬱なのです。
これは時代の過渡期における世代によくある悩みなのかもしれません。
子供のころに住んでいたのは大阪と京都を結ぶ京阪沿線の守口という町でした。
地名は大阪の守り口にあたることに由来していますが、 江戸時代には少し京都寄りの枚方から船にのって淀川を下れば守口を素通りして大阪へ入れたので守り口としての役割は小さかったように思えます。
町の北側には一級河川の淀川がながれ、台風のころにはよく支流が氾濫して浸水したため蓮根畑がひろがっていました。
あちこちに水路がめぐらしてあってそこでは鯉がよく釣れました。父親と釣りに行くと帰りに農家と交渉して鯉と蓮根とを交換したものです。
家のそばの田んぼでは、農家が馬を使って耕していたので道にはよく馬糞が落ちていました。それにロバのパン屋も糞をおとしていきます。
当時は農家が家々をまわって下肥を集め、それを畑の隅にある肥溜めに入れていたので馬糞を見つけてはそこへ放り込みました。
この肥溜めのありかについては熟知していましたが、あるときうっかり落ちてしまって母親にえらく叱られました。小川に入れられて頭から水をかけて何度も洗われた記憶があります。
大阪の郊外とはいっても十分田舎の風景が広がっていて、田んぼでイナゴやドジョウをつかまえたり、ため池でザリガニをつかまえたりして日が暮れるまで遊んでいました。
家は四畳半と六畳に小さな台所がついた長屋暮らし。狭い玄関にはセキセイインコや文鳥の飼育箱が所狭しと置いてあり、裏庭にはウサギと犬がいました。
ちょうど日本が占領統治から独立して5、6年後の昭和30年代前半の話しです。
人々の多くは貧しいながらも正直で清貧という言葉が似合う暮らしをおくり、どの家庭でも靴下や服が破れると母親につぎあてをしてもらって使い続けていました。
また、子供のころに近所にいた御隠居さんはほとんどが明治うまれ。痩せてはいてもかくしゃくとしていました。戦争の話はあえて避けていましたが、ご隠居さんたちの戦争は日露戦争でした。
祖父も日露戦争に軍医として従軍したらしく、わが家には旅順陥落と彫りこまれた三八式歩兵銃の薬きょうによる火箸がありました。
また父親は太平洋戦争末期に召集を受けて和歌山県の海岸で塹壕を掘っていたようで、飛来したグラマンに機銃掃射されて逃げまどったといいます。
叔父は軍医として南方に出征してニューギニアで捕虜になったといって戻ってきました。
各家々では戦争を体験した人たちがいたので子供の躾は家父長制に基づく厳しいものがあり、働く父親の食卓にはトンカツが並んでも母や自分には目玉焼きと漬物だけ。それが当たり前の世界でした。
そうした家庭の子供たちはベビーブームといわれ、今では団塊の世代とよばれるようになりました。終戦から占領統治下に生まれた世代がそれにあたります。
大阪郊外の小学校でも部屋にぎっしりと机をならべて一クラスは50人を超え、多くの場合2 , 3人は廊下に立たされて窓から授業を受けていました。
下校する校門の横では時折、業者がヒヨコを売っていたり、家に帰ると紙芝居がやってきたほか、七のつく日には国道沿いに夜店がでて賑わいました。質素な暮らしながら時間がゆるやかに流れる日々でした。
それが中学生になったある日、家の前に広がっていた田んぼや畑、ため池、空地が次々と埋めたてられて広大な敷地の松下電器の本社が出現したのです。
併せてその周辺では水路に蓋がされ道は舗装されて瞬く間に住宅地が広がって、ぼんやり歩いていると家に帰る道を間違うほどでした。
のんびりと散歩したり、縁台で日向ぼっこしていたご隠居さんたちは家に入ったきり姿を見せなくなりました。
世の中では消費は美徳とかいわれ、継ぎはぎの服や靴下を使うことはなくなり、ゆたかな暮らしになりました。
が、同時に自分のふる里が無くなったような気がしました。
山とか海とか人が手を入れても変わらぬ景色があってふる里なのだろうと思ったのです。
その点では、いま住んでいる道後温泉に近い旧北条市は背後に高縄山がそびえ目の前は斎灘(いつきなだ)のいう海に面して変わりようのない景色が広がっています。
さいわい、田畑も多くが残っていて子供たちはその中で育ちました。
彼らには時間がゆるやかに過ぎる故郷が今も残っていて、この一点に関しては誠に良かったと思います。
ただ、戦争を体験していない世代が親になり、家父長制への反動から新たな父親像を模索しましたが、小さいころの経験は体に染みついていて思ったようにいかなかった気もします。ですから子供たちから批判があれば甘んじて受けたいと思います。
戦後の貧しい時代から急激な高度経済成長期、さらには失われた三十年という経済の停滞期と激しく変わったなかで、どこかで何かを置き忘れてきたような気がしています。
それが何なのか自分でもよくわからないので、妙に憂鬱なのです。
これは時代の過渡期における世代によくある悩みなのかもしれません。