折々の記 81

別邸とお殿さま


  松山の町は、城山を中心に城下町として発展してきました。
江戸時代の初めまで、城山の南側や東の一帯はすぐに川が氾濫する低湿地がひろがっていて、排水用の水路を碁盤の目のように整備することで人が住めるようになりました。

  そして城山に近いところには上級の武士が広い屋敷を構え、南や東にいくほど中・下級武士たちの小さな家が集まっていました。現在では城山に最も近いところには県庁や裁判所などの広い敷地の建物がたっていて一番町とよばれています。

  その一番町の通りに城山へ向かう細長い道があり、奥が萬翠荘(ばんすいそう)への入り口になっています。うっかりすると見過ごしてしまいそうな細い小路です。

  城山の中腹にある萬翠荘は旧藩主の久松家別邸として大正11年に建てられています。これまで訪れたことがなかったので、先日、思いついて出かけてみました。


              晩翠荘の遠景

  当日は雨模様だったので観光客も少なく、別邸までの坂道はしっとりと雨に濡れて林間の趣がありました。舗装された坂道をのぼっていくと愛松亭(あいしょうてい)という名の喫茶店がありました。

  もとは松山藩の家老の別邸だったようですが、そこに住んでいたのが東京から松山中学に赴任してきた夏目漱石です。東京にいた正岡子規への手紙に『我が宿所は城山の中腹にあり眺望絶景なり』と書き送っています。
  そこからは道後温泉へよく通ったらしく、『汽車で十分、歩いても三十分でいける』と言い、中学校は一番町の通りをよこぎって5分ほどの距離にありました。

  愛松亭のとなりをみるとフランス風の三階建ての洋館が建っています。市内の喧騒から隔絶された異空間にたたずむフランス貴族の館(やかた)といった感じです。


              正面から見上げた萬翠荘

  内部の壁や天井は漆喰の白で統一されていて、木製の手すりや扉は優美な彫刻がほどこされ鈍く光っています。各部屋には絨毯が敷きつめられてベルギー製の鏡のついた大理石の暖炉があり、大広間には水晶のシャンデリアがつるされて優美さをかもしだしています。眺めていると、どこをとっても大正ロマンの香りがしてきます。

    
    彫刻のある階段の手すり         二階踊り場のステンドグラス
     
       絨毯の敷かれた二階廊下              鏡つきの暖炉
     
  謁見の間の水晶製のシャンデリア         二階寝室の鏡と暖炉

  これを建てたのは久松定謨(さだこと)という旧松山藩主です。鳥羽伏見の戦いで朝敵にされた先代藩主・久松定昭の跡をつぐために分家から養子に入った人でした。

  久松家は朝敵の汚名をうけたために家格でいえば侯爵になるところを伯爵にされ、位階も従五位下と低いものでした。しかも家臣はもとよりその子弟さえも、立身出世の道を絶たれていたのです。

  まさに負の遺産を背負いながらのスタートです。
それだけに貶められた旧藩の名誉を回復させたいという思いは強く、軍人の道を歩んで堅実な暮らしをおくる一方で、この建物をたてることには躊躇しませんでした。

  漱石が住んだ屋敷を買い取って別邸にすると、当時の三十万円いまなら19億円をかけてフランス風の邸宅に建てかえています。フランスでの生活が長かっただけに本場の様式にこだわったつくりです。

  そして、のちの昭和天皇をはじめ多くの皇族方や政治家たちがここを訪れるようになり、伊予松山の名声が高まって大いに面目をほどこしたようです。

  さらに東京では上京してきた旧藩の子弟のために常盤会(ときわかい)寄宿舎を建てて住まわせたうえ、学費まで支給しています。正岡子規などは第一期の寮生でした。

  ちなみに維新から半世紀ほどたった大正3年のことですが、旧藩士の子弟だった秋山好古が近衛師団長に就任し、福音寺村の庄屋の息子だった仙波太郎が歩兵第一師団長となり、定謨自身も近衛歩兵第一連隊長となって松山藩出身者がそろって天皇警護の役目についたので、『これで朝敵の汚名を返上することができた』と涙して喜んだといわれます。

  ご本人にとっては大変な人生だったのでしょうが、晩年には正二位勲一等の叙勲を得て心静かに萬翠荘でバラの栽培にいそしんでいたとか。

  その主の思いがつまった建物をたずねてみたら、萬翠荘の名のとおり、翠(みどり)に萬(みち)た荘(別邸)でした。