折々の記 86

久闊を叙す


  久しぶりに東京へ出てきました。
  今回は同窓会のために西へ向かいます。羽田からモノレールと山手線、中央線と乗りついで国分寺駅につくと、府中行きのバスにのりかえて大学前でおりました。朝に松山の家をでて、昼前に着いているので近いといえば近いような気もします。
  これまではコロナの影響でウェブを使った会議でしたが、今回は集まっての総会になり、杖を片手にやってきました。

  この学校には農学部と工学部の二つの学部しかありません。だから東京農工大学という名前になっています。今回、やってきた府中市には農学部があり、工学部はすこし離れた東小金井にあります。
  農学部は、前身となる東京高等農林が旧帝大の演習林をもらってできているため、東京にあって緑の多さと広い農場はまことにもって贅沢なものです。
  かつての武蔵野を思わせる雰囲気があり、天気の良い日には富士山が建物の屋上から見えました。夕日に染まった真っ赤な富士を眺めながら、葛飾北斎が描いた赤富士は実際にあったのだと驚きました。

  バス停から少し歩いて正門を入ると、道の両側にある欅(けやき)並木が心地よい木陰をつくり、これまでとはちがった空間に入った感じがします。しばらく行くと、正面にある本館建物につきました。
  時間が早かったせいか受付に人の姿はありません。やむなく、構内をしばし散歩することにします。

  近くに雑木林をぬける道がみえたので、そこを歩いていくと見おぼえのある建物が木々の間から見えてきました。それにしても、あたりは不思議な静寂につつまれています。ときおり本を手に歩いている学生を見かけますが、ほとんど人の姿はありません。
  
  木洩れ日の中をさらにいくと小さな池にでました。傍らにベンチにあったので、腰をおろしてすこし休むことにします。木々の葉を通して差し込む光がゆらめいています。ふと、50年前にもここに座って空の青さを見ていたような気がします。入学して期待どおりの古さだったことに満足していました。

  この学校は校章がいいのです。欅(けやき)の葉をモチーフにしています。当時、蛍雪(けいせつ)時代という分厚い大学受験の本があって、各学校の校章がのっていました。
  ここの校章は数ある学校のなかで唯一、武ばったところがないうえに古い伝統を感じさせる何かがありました。

  結局、それが気にいって受験することにしたのですが、入ってみると明治初期の駒場農学校や蚕病試験場がもとになっているだけに期待どおりの古さでした。それに東京にあって、武蔵野の雑木林がのこる広い構内はそれだけで伝統にふさわしい気がしたものです。

  そういえば、十年ほど前にたまたま岡田 温(あつし)という人の書斎を借りて話しをする機会がありました。家は松山市の中心部から少し南にはずれた石井というところにあって書斎は庭の離れにありました。 
  調べてみると、この人は明治32年に東京帝国大学の農学部実科をでて農会技師になり、農業指導に携わったのち帝国議会の代議士となって農民運動を指導しています。
  大正9年の原内閣のときに文部省が突然、農学部の実科廃止に動きはじめます。同窓会の会長に推された岡田氏は反対運動を繰り広げ、帝国議会に働きかけて実科を東京高等農林として独立させることに成功しています。おかげで学校は今にいたるまで歴史を刻むことができました。
  学校の伝統というのは、そこに学んだ人々の歴史が積み重なってできた地層のようなものです。たまに地層を堀りおこしてみると、その時々に生きた人々の姿に巡り合えます。時を超え、思わぬ場所で先達にめぐり合えたわけです。

  そして、いま同じ場所で空を見上げている自分がいるなんて、50年前には思いもしませんでした。振り返ってみると、人生はまことに不思議なものです。

  そんなことを思いながら池の先に目をやると、木漏れ日の向こうに人々が歩いていく姿が見えました。どうやら地層の一部になりかけた同窓生との時間がきたようです。

 大久保利通が私財を投じて設立した駒場農学校を祖とする碑があり、碑の
台座には利通が生前に佩刀していた短刀がおさめられています。

構内の様子です。東京高等農林の学生たちが演習林を開墾して建物やほ場を
整備しました。武蔵野の林のなかに建物が点在しています。

             陽光を受けて緑がきれいです。

  林の中に講義棟や研究棟があり、落ち着いた環境のもとで学べます。