庚申庵を訪ねて
今から十年ほど前のこと。近くに小林一茶が歩いた道があり、今も一茶の道として残っていることを知りました。
それは樹園地の造成を進めている時に、住民から'一茶の道'が工事にかかると言われたのです。
本当に一茶がこの地に来ていたのだろうか、なぜ北条の地までやってきたのか、など疑問は尽きませんでしたが、その時は誰も答えを持ちあわせていませんでした。
それが先日、調べものをしているときに偶然わかりました。
松山の街中に庚申庵(こうしんあん)という史跡庭園があります。
市が運営していて、松山駅から歩いて15分ほどの近くにあるというので訪ねようと調べていると、小林一茶が俳諧(はいかい)の友である栗田樗堂(くりたちょどう)を松山へ訪ねているのです。それも二度も遠路を訪ねています。
その際に、一茶は俳諧の旧友を訪ねるために北条へも立ち寄っていたのです。友人は亡くなっていましたが、近くの庄屋たちが遠来の一茶をもてなしたらしく、庄屋の名前も残っています。時代的には俳諧が庄屋や商人たちの間でひろまった1795年のこと。
当時の人たちは会いたい人がいれば、交通の不便さをものともせずに訪ねていたらしく、江戸期でもこのころは町人文化が栄え、社会にもゆとりがあったのでしょう。
ちなみに俳諧とは奈良時代を緒とする連歌から派生した文芸の一種とされ、おもに江戸時代に流行したようです。
5・7・5と発句を詠むと別の人が脇句で7・7と締めくくります。
つまり、5・7・5・7・7で一句になります。
これが何十何百と続いたものが連歌であり、連歌は室町時代に貴族や武士たちの間で流行(はや)りました。
一方、俳諧は即興的で自由な言葉あそびとして江戸時代に広く町民にまで広まったとされています。伊予松山藩などは、藩主みずからが芭蕉門下の宝井其角に入門しているほどの熱心さです。
そして、明治になって5・7・5の発句だけを俳句として確立したのが正岡子規でした。
和歌から連歌になって俳諧となり、俳句へと変わってきたのです。
庚申庵は江戸時代に俳諧をよくした栗田樗堂が、庚申の年につくった草庵なのでその名がついています。
訪ねてみると、敷地は奥行きが深く、ほとんどが泉水の庭園でしめられ、藤棚やしだれ桜、もみじなど季節を彩る樹木が植えられています。
庵は和室が三間あるだけの平屋ですが、いまは俳句や煎茶などの催しものに使われているようでした。
庵のまわりにはマンションや高層ビルが囲むように建ちならんでいますが、繁った木々のおかげで周囲とは隔絶され、街中にいるとは思えない静けさです。半日近くも庵にたたずむ外国からの旅行者もいるとか。まさに隠れた庵でした。

庚申庵の玄関
樗堂はもともと『廉屋(かどや)』という大きな造り酒屋をいとなんでいた傍ら、町方の大年寄としての仕事もしていたようです。それが五十二才のときに一切から身をひいて本宅近くに庚申庵をつくり俳諧三昧の暮らしをはじめています。
当時の全国俳諧番付が残っていて、樗堂の名が西の前頭三枚目にありました。伊予松山の僻地にありながら、全国的にはかなりの有名人だったようです。武芸者が諸国修行の旅にでるように、一茶が訪ねてきたのもごく自然なことだったのでしょう。
今でこそ松山市は子規のおかげで俳句の町と言われていますが、子規が育った松山にはもともと俳諧が盛んな土壌があったわけです。
では、なぜ松山に俳諧文化が育ったのでしょうか。藩主自らが熱中していたことも影響しているでしょうが、県民性なのでしょうか。
四国の県民性を比較した『もし一万円を拾ったら』というたとえ話があります。
阿波の人間は商売の元手に使ってお金を増やそうとしますが、讃岐の人間はきっちりと貯金します。伊予の人間は、料亭にでかけていって使い切り、高知の人間は自分の一万円を足して二万円のお酒を買って帰って飲んでしまいます。
松山には昔から『楽しくなければつまらない』という遊び好きの空気があったらしく、それが武士には能楽、庶民には俳諧という楽しみの文化を根づかせたのでしょう。
それは伊予の立地条件が京、大阪から遠いために日々の商業圏に入ることは無かったものの、海運によってほどほどに暮らし向きが立ちゆき、上方から伝わった娯楽を楽しむ余裕があったからでしょう。

玄関から庵への道

庵の入り口

庵には二畳、三畳、四畳半の三間があります。
後世になって保存のために住んだ人が別に台所を継ぎ足しています。