折々の記 21

小さき者の知恵


   若い頃の話ですが、カミキリにつくカビの研究をしていたことがあります。カミキリの種類でいえば黒い体に黄色の斑点があるキボシカミキリムシです。小ぶりな体つきで危険を感じると落ちるようにすばやく逃げていきます。キボシカミキリは桑やイチヂクの樹皮の内側に卵を産みつけ孵化した幼虫は樹の内部を食べながら蛹になるまで暮らします。そのため農薬を撒いてもあまり効果は見られません。

   ところが、このカミキリだけに罹るカビが見つかったのでこれを増やして畑に撒けば減らせるのではないか。そう考えてカビを培養して畑に撒いてみることにしたのです。撒いてから気がついたのは、どうやってこの広い畑でカビに罹ったカミキリを探すのかということでした。
   妙案も浮かばないのでとりあえず毎日、桑の株元を這いずり回わってカビに罹って落ちたカミキリを探すことしました。夏の暑い中、根気と体力がいる方法でしたが、いつまでたってもカビに罹ったカミキリに出会いません。そのうちに妙なことに気がつきました。カビに罹ったカミキリは枝の高いところでとまって死んでいたのです。体がカビに覆われて下に落ちてこないうえ、風が吹いても落ちる気配すらないのです。
   なぜ、あんな高いところで死ぬのだろうか。どう考えても不自然だし、カミキリが自らの意思で死に場所を選んでいるようには思えません。
   感染したカミキリが高い場所で死ぬとカミキリの体を覆っていたカビの胞子は風にのって遠くへ飛んでいきます。そうすれば次のカミキリに出会う確率は高いはず。カビにとっては子孫を残すためには好都合というわけです。とするとカミキリにそうした行動をとらせているのはカビのせいかもしれないと思ったりしました。
   ある種のウイルスに感染した虫は感染末期になると木の上へ移動して死ぬことが知られています。 梢頭病とよばれる病気は感染した虫が梢(こずえ)の先まで移動して死ぬことからその名がついています。 枝先の目立つ所なので鳥や蜂に食べられたり、風に飛ばされたりするとウイルスが拡散されて次に感染すべき虫に出会えるのです。
    最近の研究によると、このウイルスはその昔、感染した虫から遺伝子の一部を取り込んで、その遺伝子の働きによって感染した虫にホルモンを作らせて行動を操っていることがわかりました。高いところへ移動して死ぬのもそうしたウイルスの意思によるものでしょう。これはかなり高度なワザと言えます。

   ウイルスは遺伝子だけの簡単な構造です。カビの胞子も一つの細胞にすぎません。この小さき者たちが自然界で生き残るには寄生する生き物をうまく利用して自分たちを増やすしかありません。
   他方、昆虫などの生き物のからだをつくっているのも遺伝子です。そしてウイルスやカビから守る手立てを講じています。いわば遺伝子同士の争いが宿主と病原に分かれて行われているのです。
   そう考えると私たち人間は遺伝子が生き残るために作られた仮の姿にすぎないのかもしれません。