折々の記 55

 おコメと弥生人


  最近、古代人の歯からDNAをとりだして解析する技術が進み 『日本人はどこから来たのか』という議論がふたたび活発になっています。DNAには多くの情報が含まれるため日本人の意外な来歴がわかるようになってきました。

   その成り立ちを主な仮説をもとに要約すると、数万年前に南方から日本列島へ採集や狩猟をおこなう人々がやってきて彼らが最初の縄文人になりました。
   ついで稲作の技術を持った人たちが中国の華中あたりからやってきて弥生人になり、さらにオホーツクや渤海(ぼっかい)、朝鮮半島などから鉄の文化を持った人たちがやって来て、これらの人々が緩やかに混血しあって日本人の原形がつくられたというのです。
   ちなみに最初の縄文人はパプアニューギニアから分かれた人たちであり、北上して極東に広がったあとはベーリング海をわたり南北アメリカへ移動しています。

    これまでは、弥生人が朝鮮半島からやってきて稲作を伝えたとされていましたが、朝鮮半島と日本のイネの栽培はほぼ同じころに始まっていることを思えばどうなんでしょうか。

   日本でいうおコメは、粒が短く粘りのあるジャポニカとよばれる種類です。世界には、ほかに粒が長くて粘りの少ないインディカという種類もあり、じつは世界のコメの8割以上をしめています。
  つまりとジャポニカを食べていたのは日本など一部の地域に限られているので、ジャポニカについて調べれば稲作を伝えた弥生人の姿が見えてくるかもしれません。

   日本における最も古いおコメは紀元前1千年頃の佐賀県・菜畑遺跡から出土したジャポニカとされています。遺跡からは、ほかにアワやオオムギ,アズキも見つかったほか、水田跡もありました。弥生人たちは畳4枚ほどの小さな田んぼをたくさん作ってジャポニカを栽培していたようです。

   一方、世界で最も古いおコメは紀元前1万4千年頃の長江(揚子江)中流域の遺跡から見つかったものです。それは野生イネと栽培イネの両方の特徴をもち、しかもジャポニカとインディカの両方の特徴があって人類が野生のイネを栽培しはじめた頃のものと言われています。
   さらに紀元前5千年頃の長江下流域の河姆渡遺跡からは大量のジャポニカが見つかっています。このころには、ジャポニカは遺伝的に独立して栽培用のイネとして作られていたことがわかります。

   それに長江のジャポニカには、特有の遺伝子が含まれていて、じつは日本の在来種にも同じ遺伝子があるのです。ところが朝鮮半島のコメにはその遺伝子がないのです。つまり、長江のジャポニカが直接、日本へやってきたと考えられるのです。

   長江下流域の人たちは、当時は漢民族ではなく百越とよばれる人たちでした。漁労や海運に長じた民族だったので、沖にでて黒潮に乗りさえすれば簡単に九州へ着くことができたのです。


     中国におけるイネの栽培起源地とジャポニカの誕生地

   のちに魏志倭人伝のもとになった魏略(ぎりゃく)には、卑弥呼(ひみこ)の使いの難升米(なしめ)が洛陽(らくよう)で皇帝に拝謁して、『自分は呉の王、太伯の子孫』と述べています。

   呉は紀元前12世紀に長江下流域で興った国の名前で、彼はその国王の末裔(まつえい)だと言うのです。真偽のほどはともかく、倭国と長江下流域とは何らかのつながりがあったので、そうした発言になったのでしょう。それに魏の方では『倭国は長江下流にある会稽(かいけい)の東方海中にある』と信じられていたのです。

   こうしてみてくると、長江下流域の人たちが黒潮にのって海を渡りジャポニカとコメの栽培技術を日本に伝えて弥生時代が始まったように思えるのです。そして彼らが最初の弥生人になったのでしょう。