折々の記 80

道後温泉を歩いてみた


     
   温泉の多くが山ぎわの谷筋にあるように、道後温泉も高縄山系が平野に落ち込む谷筋にあり、そこが街の中心に近いために路面電車にのればカタコトと十分ほどで行くことができます。

  温泉街の中心部には本館とよばれる明治のおもかげを残した木造三階建ての老舗旅館のような建物が建っています。
  明治27年に建てられてから日に三度、屋根上の鷺閣(しんろかく)にある太鼓をたたいて刻(とき)を告げてきました。
  現在は耐震改修中なので二階にある霊(たま)の湯だけで営業していますが、七月になれば神の湯と又新殿の改修がおわるので五年越しの本格営業になるでしょう。

  本館からは西に向かって広い坂道が伸びていて、両側には高級なホテルが立ち並び温泉街の表玄関になっています。各ホテルには内湯が引かれていますが、多くの観光客は本館や椿の湯、飛鳥乃湯といった外湯へ浴衣姿で歩いていきます。

  私も愛媛に来た五十年ほど前に一度だけ本館の霊の湯に入りましたが、あまりに湯が熱いので湯釜から飛びだして、それ以来入ったことがありません。いま聞くと、湯温は41.7℃というので思ったほど高くはなかったようです。


        道後温泉本館   本館の右上に見える道がホテル街です

  この本館からもう一本、北に向かって細い坂道がのびています。観光客が訪れるような華やかさはなく、裏道めいて通ったことはなかったのですが、今回散歩がてらに歩いてみることにしました。

   本館の横に小高い冠山(かんむりやま)があり、その上に車をとめて階段を降りると、ちょうどその細い道にでます。
   一方通行の狭い坂道をのぼっていくと古い家を取り壊して駐車場にしている所が多いのですが、常盤荘(ときわそう)といういまどき珍しい木造二階建ての古い旅館がありました。

  さらに行くと左手に妓楼(ぎろう)のような凝った造りの二階家があり、家の前には別に坂道がのびていて奥にはお寺らしきものが見えています。道の入り口にはかつて山門でもあったのでしょうか、大きな石碑が置かれて宝厳寺(ほうごんじ)と刻まれています。

   たしか先年、火事で一遍上人(いっぺんしょうにん)の木像が焼失したというお寺のようです。であれば時宗をひらいた一遍上人の生誕地。道標には上人坂(しょうにんざか)と書かれています。


          上人坂をのぼりきったところにある宝厳寺  

   じつはこの坂、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に出てきます。
  
  『風呂を出てみるといい月だ。街内の両側に柳が植わって枝が丸い影を往来に落としている。 少し散歩でもしよう。
  北へ上って街のはずれへ出ると左に大きな門があって門の突き当りがお寺で左右が楼閣である。 山門の中に遊郭があるなんて前代未聞の現象だ。ちょっと入ってみたいが、また狸(校長)から会議の時にやられるかもしれないから素通りした。
  門の並びに黒い暖簾をかけた小さな格子窓の平屋はおれが団子を食ってしくじった所だ。丸提灯に汁粉、お雑煮とかいたのがぶらさがって提灯の火が軒端に近い一本の柳を照らしている。』

   どうやらこの坂には江戸時代から遊郭(ゆうかく)が立ち並んでいたらしく、昭和の時代にはネオン坂という歓楽街であったようです。

   ただ、歩いてみると今ではそうした面影はまったくありません。それどころか俳句を記した標識が所々に置かれ、坂道の中ほどには俳人・夏井いつき氏が句会を催す伊月庵(いげつあん)が端正なたたずまいをみせています。令和の上人坂は、文化的な明るさをもった道にうまれ変わっています。
 


   宝厳寺から道を左にとると途中から山の中腹(ちゅうふく)を巻くような細い道になり、ホテル街の裏を縫うように進んでいきます。道ゆく人の姿もなく、華やかな喧騒がウソのような静けさで何やら裏寂しい感じさえしています。そのうちにとうとう墓地にでてしまいました。

   看板には市営の鷺谷(さぎだに)墓地とあり、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公の秋山好古(よしふる)が眠っているところです。
  のちに外国の武官たちから『秋山好古の生涯の意味は満州の野において世界最強のロシアの騎兵集団を破るというただ一点に尽きている』と称された松山出身の明治の軍人です。その英雄も眠っているうちにホテル群に包囲されてしまってさぞ驚いていることでしょう。

   そこから道はホテル街の表通りにでて、もとの本館へ下っていきます。道なりに進むと土産物や飲食店が立ちならぶ道後商店街にさしかかりました。大勢の観光客であふれ中国語や韓国語が飛び交っています。
   その喧騒から離れて道後公園に向かって下っていくと、伊佐爾波坂(いさにわざか)を過ぎたあたりに湯桁橋(ゆけたばし)と刻まれた石碑をみつけました。のぞきこむと、確かにきれいな疎水が流れていて橋は暗渠(あんきょ)になっています。

   湯桁(ゆけた)とはお湯の槽をさした古い言葉です。かつては湯桁橋を過ぎるといくつもの湯槽(湯壷)があったのでしょう。

   平安時代に流行った謡に『伊予の湯桁はいくつある? 数えたことも よんだこともないから知らないなぁ あなたなら知っているでしょ?いや知らないよ』という他愛のない歌がありました。
   源氏物語の夕顔の巻でも『伊予之介の上京を迎えて国の物語りなど申すに、光源氏はあの有名な伊予の湯桁の数はいくつあるかと聞いてみたくなった』とあります。京の都でも道後の湯桁の多さは知られていたようです。

   また、飛鳥時代には聖徳太子が道後を訪れ、湯桁についての碑を残しています。『湯桁を囲んでツバキがお互いの枝を交えて繁りあい、衣笠をさしかざしているかのようである』と野趣あふれる風情を口にしています。おかげで道後温泉は史料のうえで日本最古の温泉といわれています。
  
   ちなみにこの温泉は火山性の温泉ではありません。地熱によって暖められた熱水が湧きだしているのです。四国にはこうした温泉がいくつかあって、それらは同じ高縄山系に属しています。湯に匂いはなく加熱したり冷やしたりせず、源泉かけ流しの贅沢さです。

   毎年、夏になると水不足で悩む松山市ですが、さすがに温泉だけは節水の呼びかけから除外しています。我が家も同じ高縄山系にあるので井戸を掘れば温泉がでてくるかもしれません。そうなれば、水の心配をすることなく、観光客の喧騒から離れて静かな湯治ができるのですが。

          道後温泉本館の周辺地図   青い線のことを歩きました