立ち止まってみてごらん   

 


       折々の記  88   タニシの親方                
              折々の記  87   性格と血液型        
         折々の記  86   久闊を叙す                  
               今月のフォト    7 月                   
        蚕と絹のあれこれ 48   養蚕の言葉  その6   


             蚕と絹のあれこれ 49  養蚕の言葉 その7

  今回は呉と服の言葉についてふれてみたいと思います。
  着物を扱うお店は一般に呉服屋さんといいますが、なぜ着物のことを呉服というのでしょうか。

  呉は音よみなら「ご」ですが、訓よみなら「くれ」になります。また服は音読みしかなくて「ふく」ですが、昔は訓よみで「はとり」といわれました。なので呉服を訓よみすると「くれはとり」になります。

  この「くれはとり」は呼んで字のごとく、呉(ご)の国で織られた服をさしたもので、のちに音読みされて「ごふく」になっています。日本の着物は呉の国から伝わったものだったのです。

  なお、服を「はとり」とよむようになった理由は、大和朝廷のころに遡ります。豪族たちが所有する職能の集団を部(べ)とよんでいて、機織りを専門とする集団を機織部(はたおりべ)とよんでいました。

  その「はたおりべ」がのちに「はとりべ」に転訛して服部という字が充てられ、その後「はとり」とよばれ、さらには「はっとり」へと変化して今にいたっています。服部という苗字をみて、なぜ「はっとり」と読めるのかずっと不思議でしたが、機織部からきていたのです。

  また、機織りの「ハタ」を名前にした一族もいます。応神天皇の世に、朝鮮半島から多くの職人を率いた弓月君(ゆみづきのきみ)が帰化しています。日本書紀にもその事がみられます。
  渡来してきた人々は、いまの京都市右京区太秦を本拠地に奈良の葛城や京都伏見の深草、寝屋川市の太秦などに住まいしながら養蚕や機織り、土木の技術をいかしてはたらき、長岡京や平安京の造営や広隆寺などの建立に資金や技術を提供しています。

  それらの貢献が認められ、朝廷から弓月君の子孫に機織りにちなんで波多(ハタ)の姓を賜わっています。その際、弓月君はかつて新羅に攻められた秦韓という半島国家の王だったことから、「ハタ」に秦の字をあてて秦氏を名乗るようになったのです。
  「ハタ」を連想させる地名には、八幡、葉田、秦野、畑、八多、波多野などがあり、その多くは秦氏が住んでいた土地と関係しています。また、伏見稲荷神社をはじめとする各地の稲荷神社の建立にも携わり、子孫が社家となって現在にいたっています。

  ところで呉の国について調べると機織り以外にも多くの影響を受けたことがわかります。
  たとえば、色の種類に紅色(べにいろ)があり、これを「くれない」ともよみます。この「くれない」は呉の藍、つまり「くれあい」が訛って「くれない」になったものです。呉からつわった藍は、藍染めだけでなく染料全体をさしていて、機織りに加えて染色技術も伝わっていたのです。

  さらに、漢字には音よみと訓よみがあり、音読みには呉音と漢音があります。たとえば神を「しん」とよむのは漢音ですが、呉音なら「じん」です。仏を「ふつ」と読むのは漢音ですが、呉音なら「ぶつ」です。呉の国から直接伝わったかどうかについては諸説ありますが、日本語に呉の発音が入っていることは間違いありません。

  こうした呉は三国志に登場する呉ではありません。それより前の紀元前580年ころ、周の国が中国の平原をおさめていた時代に揚子江の南岸にあったのが呉の国です。
  川の対岸には越の国があり、お互いに争い、時に利を考えて手を結んだりして呉越同舟という言葉もうまれています。

  当時の呉には漢民族はあまりいなくて、上半身は裸でいれ墨をほどこし、髪は断髪、泳ぎがうまくて操船技術に長けた百越の民が住んでいました。この点、魏志倭人伝に書かれていた倭人(日本人)が断髪で入れ墨をしサメの被害を避けていたのとよく似ています。

  その呉を建国したのは流浪のすえにたどり着いた太伯という人物でした。この人は周の皇帝の長男でしたが、当時は末子が相続するのが習わしだったので次男とともに周の国を後にして南下してきたのです。

  その太伯の子孫が倭の国(日本)へわたったと魏略に記されています。それに、倭人が会稽に来て布を買っていたとか、会稽のひとも暴風雨にあって倭(亶州)に流れつくものもあったといわれ、当時の日本と呉の国はかなり近い関係にあったようです。なお、会稽とは揚子江の河口にある大きな町の名です。

  ちなみに後年、三国志の時代にあった呉の国は孫権が王になり、敵対する魏の背後から圧力をかけるために倭(日本)を攻略しようと試みます。でも、二年かけても軍船は倭にたどりつけませんでした。そのころ倭の卑弥呼は魏に近づこうとしていたので、孫権はやむなく遼東半島の燕と同盟を結びます。それを知った魏は燕を滅ぼしてしまいました。

  卑弥呼や倭国にとって東アジアの政治情勢は思った以上にダイナミックで危険だったようです。