折々の記 75

今治城を訪ねて


  本州から見て、愛媛県で最も近い市が今治市です。
  しまなみ海道を使えば、尾道から車で1時間くらいでしょう。

  造船とタオルの町と言われて久しいのですが、今治藩3万5千石の城下町のせいか、街中の雰囲気はゆったりとして落ちいています。
  今回は海城としても知られる今治城を訪ねてみました。

   城の外郭はめずらしく正方形をしています。かつては内堀や中堀、外掘をめぐらしていましたが、今は内堀だけが残っています。現在の今治港は中堀が海に接して港になっていたところです。
  内堀の幅は70mと広く、海の潮がひきこまれているのでチヌやスズキなどの海の魚たちがゆったりと泳いでいました。

   急潮で知られる来島海峡をはさんで見える、大島や隣の伯方島、その先の弓削島や魚島などは今治藩領でした。これらの島々は、信長や秀吉と戦った村上水軍が根城としていた所で、舟の難所になっていて同時に瀬戸内航路の要衝にもなっています。

  今治藩はここを通過する船を監視して万一、長州や薩摩藩が京・大阪へ攻めのぼることがあれば、それを海上で阻止する役目を帯びていました。そのために幕府は親藩の久松松平家をここに置いたのです。


 右手の船が止まっている桟橋はかつて中掘にあった藩の港です。現在の今治港です。向こうに来島海峡を渡る来島大橋の橋げたが見えますが、大島との間にかかっています。手前は内堀です。
              内堀を渡って大手門に通じる道

                   5層6階の天守です。

        鉄砲櫓や武具櫓など七つの櫓が各所に配置されています。

   昭和55年に復元された5層6階の天守閣は、高さのわりにスリムな感じを受けます。かつては城の南東角にあり、現在、神社の本殿が建っているところにあったようです。

   城は周囲を高い城壁と櫓で囲まれた優美な外観をしていますが、3万5千石の城にしては立派すぎるように思います。築いたのは築城の名手といわれた藤堂高虎でした。

   高虎は秀吉の時代に宇和島藩7万石の大名になり、その後大洲藩の1万石を加え、さらに関ヶ原の戦いのあと今治藩12万石を加増されて20万石の大名になっています。この間に宇和島城や大洲城を築城したり大規模な改修を行っており、この城は今治藩が20万石のときに作られた城でした。

   高虎が、三重県の津藩に転封したのち今治藩は久松松平家が3万5千石で入っています。
  城もお役目もそれまでと変わらないのに懐具合は1/6ほどでまかなわねばならないため、そのせいでこの藩は江戸期を通じてずいぶん苦労をしています。今治から水が峠を越えて松山藩へ逃げる農民があとをたたなかったといいます。

   隣の松山藩とは同じ久松松平家ですが、財力は松山が十五万石と4倍もありました。隣にいて親戚づき合いは大変だったでしょう。
  そして幕末に今治藩は、薩長の朝廷側につき新政府軍として戊辰戦争にまで参加しています。一方、松山藩は幕府側について朝敵になってしまいました。

   この違いは、今治藩が小藩ゆえに幕府から当てにされなかっただけでなく、海運を利用して時勢の動きを適格につかんでいたからでしょう。藩では情勢をさぐるため、色々な藩に家臣を定期的に派遣して各藩の動向を探らせていました。
  だから、薩摩や長州の船が通過しても、咎めることなく眺めていたのです。
  この外から情報を得ることに対して旺盛な意欲を示すのは、今の今治人にも通じているかもしれません。何人かの知り合いを思い浮かべながら、そう思いました。