二ノ丸史跡庭園を訪ねて
十月に入って日差しが和らいだので松山城の二ノ丸史跡庭園を訪ねてみました。これまで二ノ丸の下にひろがる三ノ丸跡(通称、堀之内公園)には散歩がてらに来ていましたが、二ノ丸を訪ねたのは初めてです。
本丸へ上るための黒門口から道をとり、城壁にそってカギの字にまがった坂道を上っていくと、山を切り開いた空間に二ノ丸邸がありました。興味深いのは、道の途中に地形をうまく利用した砲台や櫓(やぐら)跡があり、敵からの侵入を防ぐ工夫が密にされていることでした。
二ノ丸邸は石垣と白い土塀で囲まれていて、正面の入り口は二ノ丸御門とそれに続く多聞櫓で構成されています。
もともと藩主の生活や政務をおこなうために作られた建物だったので、表御殿や奥御殿などの建物などで占められていましたが、いまは西洋式の流水庭園や池と岩からなる日本庭園になっています。
さらには柑橘の見本園があってザボンやユズ、伊予柑などの柑橘が植えられています。いくら柑橘が盛んな土地とはいえ、お城の中に果樹園とは少し違和感をおぼえました。
でも思い出したのは、旧松山藩主の久松家には果樹の見本園がありました。たしか、松山市の東野の地に久松家のお茶室があってその敷地の一部に果樹園がありました。
20年ほど前のことですが、久松家からの要望を受けて果樹園と隣接する県の土地とを交換したことがあります。当時、お殿様と果樹園との取り合わせに不思議に思いながら手続きを進めたことがあります。
かなり後のことですが、ご縁があって「岡田 温」という人物の書斎を訪れることがありました。その時に、この人物が明治44年に久松伯爵から依頼を受けて果樹園の整備と運営を行っていたことや、知人の隅田源三郎が園の管理と指導を行っていたことを知りました。
岡田氏は私の出身校の前身にあたる東京帝国大学農科大学の先輩になり、隅田氏は妻の祖父にあたります。
意外な人たちが関わった果樹園でしたが、その整理にあたったのも何かのご縁なのでしょう。ですから松山市が二ノ丸跡を整備するにあたってお殿様の果樹園を復活させたとすれば、それはそれで意義深いことだと感心したのです。
ところで松山藩は江戸期をとおして松平氏が治めてきましたが、明治になって久松姓に変えています。変えたというよりも変えさせられたといった方が正しいかもしれません。
大名が自らの姓を変えるなど聞いたことがありませんから。では、なぜ変えさせられたのでしょう。
そのわけは、鳥羽伏見の戦い(慶応4年)で敗れて朝敵になり、許しを得るには莫大な献金と藩主の交代、改姓が必要とされたためです。戦いでやむなく幕府側についた藩が直ちに詫びを入れて許された例も少なくありません。
なぜ、こんな扱いをうけたのでしょうか。
当時の藩主は、津の藤堂藩から養嗣子として迎えた松平定昭でした。激動の幕末(慶応3年)において若くして幕府の老中に抜擢されます。おそらく優秀だったので期待されたのでしょう。
それに西日本で瀬戸内の海路をおさえることができる数少ない親藩であったことも理由のひとつでしょう。
でも、お役目が重きすぎるという藩士たちの意見をうけて半年後の大政奉還のときに老中職を辞任します。幕府の中枢からは危機に際して役目を放り出したという侮蔑の視線でみられ、仕方なく慶喜のそば近くにいたところ、鳥羽伏見の戦いに巻き込まれてしまったのです。
慶喜が大阪城から脱出したときは、まさかの置いてきぼりをくわされてしまいます。途方にくれて松山へもどったところ、逃亡とみなされて朝敵にされてしまったのです。
そのまま在阪して、朝廷に恭順の意を示せば事なきを得たかもしれません。老練な補佐役が側に居ればずいぶん違っていたでしょう。
なお、久松の姓は初代藩主の姓でした。家康の母親が再婚した嫁ぎ先が久松家だったのです。そのとき生まれた子供たちは家康と異父弟にあたります。のちに母親が子供たちを家康に引き合わせて松平の姓と葵の紋を授かり、江戸期を通してきました。
それを元の姓にもどしたのです。
期待されながら藩主になったものの、能力を発揮する間も無く幕末の動乱を迎えたのは不運でした。養子先の藩を潰しかけて心労がたたったのでしょう。29才の若さで夭折しています。

三ノ丸跡から見た二ノ丸邸

城壁に沿った道は鉤の手に曲がって進んでいます


大井戸の遺構 深さ9m 防火用水として構えられた

二の丸邸の奥を囲う練塀 塀の向こうにある城壁は天守への登り口

多聞櫓の内側

二ノ丸邸の内部 観恒亭と果樹見本園の一部、大井戸の柵が見えます