蚕と絹のあれこれ 21

紫と吉岡幸雄さん

    紫といえば染色史家の吉岡幸雄さんを思いだします。 二百年余りつづく '染司よしおか' の五代目当主で京都伏見に工房をかまえていました。若いころに設立した美術図書の出版社を「紫紅社(しこうしゃ)」と名づけるほど紫に魅せられた人です。かつて紫の色については次のように話していました。 『 五月の連休が始まるころに 藤や桐(きり)の淡い紫の花にくわえて菖蒲(あやめ)や杜若(かきつばた)の濃い紫色の花々が咲き競い、季節は紫色に包まれる。夏のかさね色を印象づけるのは紫色だといっていい。』(吉岡幸雄)
  たしかに紫色の花といえば、藤や菫(すみれ)、菖蒲(あやめ)に杜若(かきつばた)、桔梗(ききょう)など初夏から盛夏に咲く花は鮮やかであり、こうした花の名前から藤紫(ふじむらさき)や菖蒲色(あやめいろ)、桔梗色(ききょういろ)といった日本の伝統色がうまれています。




     藤紫           菫色                       菖蒲色                     杜若色
  染色で紫に染めるにはムラサキ草の根(紫根)を使います。ほかには青色に赤色を染め重ねて紫色にすることもあります。たとえば藍(あい)で染めたうえに紅花(べにばな)を染め重ねると様々な色合いの紫がうまれますが、紫根の色の深み、強さにはかないません。 『 紫はふれれば色が移ってくるような美しさがある。でも、紫を染めるのは色のなかで最もむずかしい(吉岡幸雄)




   江戸紫                      京紫                       濃紫                        二藍
  ムラサキ草は涼しい高原、たとえば阿蘇山麓などで作られているようですが、残念ながら目にしたことはありません。希少さでいえば、万葉の昔においても同様だったようで、ムラサキ草が群生する野原を紫野(むらさきの)とよび、朝廷の野守(のもり)とよばれる番人が守っていました。
  その紫野では天皇や貴族たちが薬草でもあるムラサキ草をさがしたり狩をしてます。紫野は一般の人が入れない禁野(きんの)とか標野(しめの)とよばれ、有名な『 茜さす 紫野いき 標野いき 野守はみずや 君が袖ふる(額田王)』 という和歌にもうたわれています。
  ちなみに染料の多くは薬草でもありますが、ムラサキ草の根には抗炎症作用や創傷治癒、殺菌効果などの効用があって珍重されたようです。
  ところで、藍(あい)で青く染めたうえに紅花(べにばな)を重ねると二藍(ふたあい)という紫色になります。紅花は中国の呉(ご)の国から伝わった藍(染料の意味)なので呉(くれ)の藍、呉藍(くれあい、くれない)といって、藍と呉藍の二つの藍から生まれた色なので二藍(ふたあい)と呼ばれました。平安朝では、この二藍が大いにはやり、若い公卿たちは赤みのある二藍を好み、年配の公卿は青味のある二藍が好まれたといいます。


         二藍                        似紫
  また、蘇芳(すおう)を使ったニセ紫(にせむらさき)という色もあります。この 「にせむらさき」の「にせ」とは「似せ」を意味し、紫に似せた色ということになります。蘇芳はマメ科の樹木で芯の部分が染料になります。蘇芳で染めてミョウバン(むかしは椿の灰汁)で媒染すると少し暗さのある赤に染まります。これを媒染に木酢鉄液を使うと紫色に染まるのです。ムラサキ草による紫に似ていますが、色の質感が違うので「ニセ紫」でよいのかもしれません。
  余談ながら、吉岡さんと話しているとき憲法黒(けんぽうくろ)の話になり、「一条寺下り松の吉岡憲法にゆかりがあるのですか」と聞いたことがあります。 室町時代の京都に吉岡憲法という兵法家がいて、宮本武蔵と決闘して敗れ、その後、染め屋になって黒染めの憲法黒を作ったという話を聞いたことがありました。
  『 たしかに、吉岡をたどれば吉岡一門につながりますが、血はつながっていません。吉岡家は足利将軍の兵法指南でしたが、豊臣方に味方したので大阪冬の陣のあとに剣をすて、弟子とともに京都四条の西洞院で染屋をはじめたのです。かなり繁盛して吉岡染、憲法黒などの名で流行しました。あるとき但馬の出石(いずし)にある造り酒屋のせがれが一軒の吉岡染に奉公に入り、その後屋号をもらって独立しているのですが、それがうちの初代になります。堀川通りには軒をつらねて染屋があり、吉岡という屋号も多くあって染屋の代名詞の一つでもありました。』
  京都の人は時間に対する感覚が違っていて、吉岡さんも江戸初期の話などは昨日のことのように話します。長い歴史のある京都ならではの話ですが、それゆえに失われつつある日本の伝統色を再現して残したいと思われたのでしょう。 そうした吉岡さんの取り組みがドキュメンタリー映画になりました。タイトルは「紫」でした。