蚕と絹のあれこれ 12

墨染の衣


  お坊さんが着ている黒い衣を「墨染の衣(すみぞめのころも)」と言います。墨染めといっても墨で染めているのではありません。そもそも墨は煤(すす)を膠(にかわ)で固めたもの。服に墨がついて洗ってもなかなか落ちないのは膠の成分によるものです。染料には黒の染料はないので、墨染の衣はどのようにして黒く染めているのでしょうか。
  子供のころ家の近くに古池があって、そこでよくザリガニを獲っていました。岸辺には泥に半ば埋もれた倒木があり、それにのって釣り糸を投げていたら、あるときバランスをくずしてひっくり返りました。そして木の下からでてきた真っ黒な泥を頭から浴びたのです。 気持ちが悪くてそれ以来、古池に近づくことはありませんでした。いま思うとこの黒い泥は、倒木からしみ出したタンニンと泥の鉄分が反応して黒くなったものでした。 この原理は奄美大島の特産である大島紬と同じです。車輪梅(しゃりんばい)というタンニンを含む染料で茶色く染めたあとに鉄分を含む泥に浸けて黒く発色させているのです。
   タンニンを多く含む染料にはドングリや檳榔樹(びんろうじゅ)の実、五倍子(ごばいし)**などがあり、とりわけドングリは手に入りやすいので昔からよく使われています。ドングリの黒は「黒橡(くろつるばみ)」と呼ばれ、値段の安い墨染の衣はこれで染められました。ちなみに橡(つるばみ)とはクヌギをさしています。
  橡染(つるばみぞめ)を行うには、ドングリと笠の部分を200gほど集め、水 5gを加えて煮だし、染色液を作ります。煮汁は濾して染色原液とします。さらに一度煮だしたドングリにふたたび 5gの水を加えて煮沸させ、漉したものを先の染色原液に加えます。
  原液は 2 倍に薄め40℃くらいにして絹布を浸して染めると茶色に染まります。これを水洗いした後、鉄媒染をおこなえば灰黒色に変わります。これを4回から5 回繰り返せば深い黒になります。橡染めは木綿でもよく染まります。木綿であれば染色液を70℃にすると染まりがよいでしょう。
  鉄分の多い泥のかわりに通常は鉄分を含む媒染液(ばいせんえき)を使います。媒染液は「おはぐろ鉄」ともいわれ、かつては錆びた鉄くずを酢やお粥の中に入れて鉄分が溶けだしたものを使いました。いまでは染料店が塩化第一鉄や鉄液を扱っているのでこれを使います。
  ちなみに、結婚した女性やお公家さんたちは歯を黒くぬる「お歯黒」をしていましたが、これは五倍子の粉を楊枝につけて歯に塗ったあと、おはぐろ鉄を塗って黒く発色させました。墨染の衣と同じ原理で黒くしていたのです。
* 檳榔樹の実は熱帯地方に生育する椰子の一種で実は卵形。江戸時代から輸入されて使われてきた。気品ある黒に染められる。
**五倍子とはウルシ科のヌルデという木にできるコブ状の分泌物のこと。五倍子やフシと呼ばれる。アブラムシが寄生して卵を産みつける刺激を受けて木がタンニン酸を多量に分泌して作った塊です。