折々の記 51

島へ赴任した日


   かつて伯方島へ赴任したことがあります。異動の発表のときに「ハカタへ転勤」と告げられて『なぜ九州なのか?』と尋ねたら「伯方島だ」と言われてとまどいました。どこにそんな名前の島があるのだろう。あわてて地図でさがした覚えがあります。

  芸予諸島の中の伯方島。しまなみ海道が通っています。 google map
   伯方島は芸予諸島と呼ばれる瀬戸内海の島の一つです。隣の大島や大三島とは橋でつながり四国と中国地方をむすぶ'しまなみ街道'の途中の島でした。近くの生名島(いきなじま)や岩城島(いわぎじま)、弓削島(ゆげじま)といった離島にはこの島から定期船で行くことができます。

  あらかじめ現地の事務所へ連絡を入れると若い職員が順路を説明してくれました。『今治からフェリーで'しただみ'(下田水)」に渡ったら大島南のインターで自動車道にのり、伯方インターでおりて'ふなおりせと'(船折瀬戸)」に沿って走って'あろうず'(有津)の峠を越えると'きのうら'(木浦)です。ついたら港のあたりを探せばすぐわかります。』 
  聞きなれない地名がつぎつぎ出てきて混乱してしまいます。これは先が思いやられると気が重くなりました。

大島と伯方島の間にある船折瀬戸。急潮なので船が真っ二つに折られたことから名がついています ここを通る船は逆潮ならば全力で入ってきてもわずかしか進みません。
   なんとか迷いながらも事務所へいくと部屋は閑散としてうす暗く、10ほどの机が並んでいるだけで人の姿がありません。そこだけ時間がとまっているみたいです。
  窓から下の海を眺めていると黒鯛の群れがゆうゆうと泳いでいます。港の両端にそれぞれ造船所があって三千トン級の船体がドックに収まっています。斜め向かいには古びた警察署があり、島しょ部で唯一の警察らしい。
  『島では警察のお世話になるような事件は起こりませんから』と、ちょうどお茶を持ってきてくれた若い女の事務員が笑いながら話してくれました。その警察署の所長とは後日、小学校の入学式に招かれ一緒に出席することになります。

   とりたてて用事もなさそうなので港ちかくを見ておこうと出かけたのですが、狭い町なのですぐに見終わって事務所にもどりました。するとうす暗い部屋の奥に年輩の次席が座っています。色は浅黒く寡黙で万事控え目な感じの人物で遠慮がちに『役場へ挨拶に行きませんか?』

   新たな町に来て一人でも知り合いを得たいところなのでさっそく案内を頼みました。島特有の細い路地をクネクネ抜けていくと急に視界がひらけて白く立派な庁舎が建っています。平地の少ない島にしては学校に次いで贅沢な敷地をもっています。
  あいにく町長は不在でしたが主だった職員に紹介されるとほとんどが村上…という名前です。あとは赤瀬さんと馬越さんがいるだけで三つの姓で足りてしまいます。さすがに村上水軍の本拠地だけあって村上一族とその郎党で占められていました。
  夕方になって職員が島々から戻ってきたので事務所は俄かに活気づき、聞くとみんな果樹栽培の専門家です。島の農業はおもに柑橘(かんきつ)なので専門家を選りすぐって配置しているらしい。

    転勤の初日が終わり、島で借りた下宿へ行ってみました。家は前任の所長が大家と契約を済ませてくれていました。家具類もそのまま使っていいとのことで、引っ越しの手間を省きたかったらしい。

  案内されていくと家は港近くの二軒続きの長屋でした。玄関を入ると右手に炊事場とトイレがあり、奥には四畳半と六畳間が続いています。トイレは今どき珍しい汲み取り式です。 畳の上にゴロンと横になってふと壁をみると仕切りの土壁が一部剥落していて隣の人の姿が見えます。それにどこからか隙間風が入ってきて窓のカーテンが揺れています。子供の頃の貧乏長屋を思い出しました。

  食事をしようと店を探しに出かけましたが近くにラーメン屋が一軒あるだけで飲み屋もありません。仕方なく入ってみると伯方の塩が地元だけに塩味のかなり効いた塩ラーメンです。これを毎日食べるとなると間違いなく血圧はあがります。これでは三度の食事は自分で作るしかありません。
  とすると、ここでの一人暮らしは『無理!』といち早く結論がでたのです。こうして赴任初日にして島での一人暮らしはあっけなく幕を閉じたのです。

  それからは'しまなみ海道'の景色を楽しみながら車で通ったり、今治から船にのって通ったりしているうちに一年が過ぎ、気がつくと島から異動になっていました。
  この間に橋がかかる三つの島の五つの町は四国本土の今治市と合併し、離島の四つの島は新しい町として出発しています。転勤の挨拶に行った役場の庁舎には人がほとんどいなくなりました。それでも島の人達はあまり気にしている風はありません。
  島では貨物船を一隻もって荷をはこぶ一杯船主が多くいて、島にいることは少ないらしい。さすが海に生きる海賊の末裔です。
   そんなことを考えながら事務所の窓から港を眺めていると黒鯛の群れがゆうゆうと泳いでいて、赴任した日と少しも変わらぬ穏やかな佇まいでした。

       伯方島の開山からみた眺望です。島々が連なっています。