折々の記 42

古墳の上の神社


   その神社は川のそばにあって古墳の上におかれています。しかも神社の祭礼が変わっています。石段から神輿(みこし)を何度も投げ落として中に納めてある『オショウネ』という分霊をかき手たちが奪い合って宮入りするのです。
  風早の火事祭り(ひのことのまつり)とよばれるこの祭りは、手力雄神(たぢからお)みたいな男たちが力を競って神様を楽しませているようです。おかげで神輿は壊されて毎年新調されています。

      川の傍にある前方後円墳の上に神社があります

     秋まつりでは神輿4体を石段の上部から何度も投げ落とします。

           本殿までの中ほどにある桜門、左手には神楽殿があります。

        階段を登りきると東向きに国津比古命神社の本殿があります。
   ちなみに風早とは一年をとおして風がよく通るという古い地名です。県都・松山市の北にあり高縄山の麓から斎灘(いつきなだ)にむかって広がった扇状地です。
  神社の名は国津比古命神社(くにつひこのみこと)でお妃の櫛玉比売命神社(くしたまひめのみこと)と向かい合って建てられています。
  国津比古命神社の境内奥から櫛玉比売命神社への石段が伸びています。

   階段を上ると左手に古墳をみながら参道奥の櫛玉比売命神社へ

                   櫛玉比売命神社
   この神社が立っている地面の下には二つの前方後円墳があります。もともと古墳が多い地域で、そのむかし物部氏が勢力を誇ったところです。物部氏といえば大和朝廷の黎明期(587年)に蘇我氏によって滅ぼされた有力氏族の一つです。中央における物部氏は消滅しましたが各地の国造(くにのみやつこ)だった物部一族は無事だったようです。
  古墳の主はわかりませんが、神社に祀られているのは国造の物部阿佐利(もののべのあさり)と物部氏の始祖とされる宇摩志麻治(うましまち)という人物です。神社の縁起によると彼らはのちの世に合祀されたもので、もとは国津比古命と妃である櫛玉比売を祀っていたようです。

  国津比古命は天照国照大神(あまてるくにてるおおかみ)ともいわれ生前の名はニギハヤヒです。妻の櫛玉比売は生前の名を三炊屋姫(みかしぎひめ)といいます。天照国照大神は古代史からその存在が消されたので祭神として残っているのは全国的にも珍しい話です。
    原田常治氏の古代日本正史によれば、ニギハヤヒは素戔嗚尊(スサノオ)と奇稲田姫(クシナダ姫)の子供として出雲の須賀にうまれています。スサノオは出雲地方で鉄の製造を行っていたタタラ集団の長(おさ)でした。力をつけたスサノオは出雲一国を治め、ついで九州へ攻め入んで平定します。ニギハヤヒは父のスサノオとともに九州を平定したあと日向の軍勢をひきいて大和の国に乗りこみます。同地を治めていた長髄彦(ながすねひこ)は降伏し、妹の三炊屋姫(ミカシギ姫のちの櫛玉比売)を嫁がせます。そして生まれたのが宇摩志麻治です。

  ですからニギハヤヒと妻のミカシギ姫、そして子供の宇摩志麻治を祀っているのは、その子孫たる物部一族にとって当然のこと。ただ、のちの世に天皇の継承をめぐって出雲系と日向系が争って出雲系が敗れた結果、さかのぼってニギハヤヒ(天照国照大神)はその存在を消されたのです。
  そのニギハヤヒを風早の物部氏が守り続けられたのはかなりの力をもっていたはず。物部氏のお家芸であるタタラ製鉄をつうじて豊富な兵器を装備した一大軍事拠点だったのでしょう。

   後年(661年)において、朝鮮半島の百済(くだら)を救うため斉明天皇が新羅(しらぎ)討伐に向かう途中にこの地にとどまっています。それもかなり長く。招集していた新居郡(にいぐん)や讃岐(さぬき)の兵がやって来ないので動けなかったのです。やむなく風早の物部氏が一族に声をかけて兵を整え何とか百済に向かうことができました。これをみても有力な軍事勢力だったことがうかがえます。
  船上にあった額王君(ぬかたのおおきみ)は『熟田津(にぎたつ)に 船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎいでな』と歌をよんでいます。沿岸の水主衆(かこしゅう)が御座船(ござぶね)の綱を引きながら漕ぎだす様子が目に浮かびます。
  そして千四百年の時をへても島の姿や海の色、浜の松は変わらずに当時の姿を今に伝えています。