折々の記 39

麦の起源と伝播


    このところ季節風を避けるために山の道を散歩するようにしています。道は途中、田んぼのあぜ道を通っていきますが、最近、冬場に麦の姿を見かけなくなりました。

  このあたりの麦は裸麦(はだかむぎ)という種類で大麦の一種です。以前はいたるところで作られていて、5月を過ぎると黄色い穂が風になびきながら波うっていました。
  麦はもともと冷涼で乾燥した気候を好むので、コメの裏作として冬場に作られてきましたが、農家の高齢化とともに米づくりが減ると麦も減ってしまったようです。

   麦にもいろいろな種類があって、世界で栽培されている麦の多くは小麦です。ロシアや中国、アメリカ、EU、インドなど多くの国で作られています。そのうち輸出できるのは、アメリカやカナダなどの数か国に限られます。つまり、多くの国は輸入に頼っているわけで、日本もアメリカやカナダ、オーストラリアから年間500万dほどを買い入れています。

  当初はさほどでもなかったのですが、戦後になって小麦の消費量が増えてはじめ、今やコメと肩を並べるほどになり、日本人の胃の半分を占めるようになってしまいました。にも関わらず、国内では需要の一割ほどしか作ることができません。麦について思いつくまま書いてみます。


                 ハダカムギ

                     麦畑の景色(5月上旬)
                  小麦 
       大麦(別名:皮麦)ムギ粒にモミ皮が強く密着しています

   麦には小麦や大麦、ハダカムギ、ライムギ、エンバクなどの種類があって世界各地で作られています。こうした麦の発祥地は、今も野生の大麦がみられるトルコ東部からイラク北部の山麓地帯といわれています。かつては肥沃な三日月地帯とよばれた地域です。

   麦の祖先はおよそ1500万年前にこの三日月地帯でうまれ、その後冷涼地帯に広がって大麦やライムギをうみだし、温暖地帯では小麦を誕生させました。
  地球が一時、寒のもどりに入った 1 万年前に、それまで野生の麦を採集していた人類は食糧危機に陥って、やむなく麦の栽培をはじめました。

  野生の麦は、芒(のぎ)が長く 粒もほそくて収量がとれません。それに麦粒が穂から簡単に落ちてしまうため、集めるのには一苦労です。それを少しずつ改良して、今の姿に変えてきました。

   イラク北部の遺跡からは紀元前6700年ころの大麦や紀元前5800年ころの裸麦が大量に見つかっています。それらは明らかに人の手が加えられた栽培種でした。
  紀元前6000年代のアゼルバイジャンやアルメニアの遺跡からは、いまの小麦に近いパンコムギが見つかっていて、カスピ海南岸からコーカサスにかけての地域が発祥地と考えられています。

  大麦も小麦も紀元前から栽培がされていますが、大麦の方が小麦より早く栽培が始まって食糧になっているようです。人々は、大河のほとりに広大な畑をつくり大麦の栽培を始め、品種の改良もおこないました。
  栽培によって食べ物が豊かになるとそれを蓄えて富(とみ)がうまれ、農具や運搬用の荷車をつくったり、加工して販売をしたりする商工業が発達して文明がおこります。
  チグリス・ユーフラテス川の沿岸ではメソポタミア文明がおこり、黄河のほとりに黄河文明がおこり、ナイル川のほとりではエジプト文明がうまれています。つまり、世界の文明は大麦とともに生まれているのです。

   このうち中国における麦の歴史を『麥』という字に注目してたどってみたいと思います。
  『麥』は日本や中国の史書にみられ、麦を意味しています。この麥の字を上下に分解すると甲骨(こうこつ)文字の『來』と『夊』になり、『來』は麦をさして『夊』は向こうからやってくることを意味します。

  甲骨文字は紀元前1600年頃の殷(いん)の国でうまれた文字です。殷の遺跡からはこの文字と一緒に大量の大麦が出土しています。文字は『向こうからやってきた麦』のことをあらわしていて、向こうとは西アジアをさしたものでしょう。つまり大麦が西方から伝わってきたのです。

  殷が滅びると次に周(しゅう)が興ります。この周では甲骨文字を発展させた『金文』という文字が使われていました。
  周の皇帝の言葉に 『我に来牟(らいほう)を胎る』とあり、『良いムギの種が西方からやってきて豊かになった』 と述べています。この良いムギとは小麦をさしています。
  大麦は麦粒を搗(つ)いて皮をとれば食べられますが、小麦は麦粒に皮が癒着しているため搗いても皮が剥(む)けません。食べるには臼(うす)でひいて粉にするしかないのです。そのため、大麦を搗いていた搗き臼にかわり、小麦を粉にする碾(ひ)き臼が周の時代の紀元前700年のころに広まっています。
  このように食べ物が大麦から小麦にかわったために、中国・華北の人たちは粒を食べる文化から粉を食べる文化へと変わりました。

   その中国の麦が日本へ伝わったのは、大麦が紀元前1000年のころといわれ、小麦は紀元前200年とされています。しかし日本人は、コメと大麦を食べてきました。
  ところが最近では、パンやピザ、スパゲッティ、麺など、小麦を大量に食べはじめ、粒食から粉食に変りつつあります。2千年ものあいだ馴染んできた粒食用の身体ですが、急に粉食になって不都合はないのでしょうか。今の世代を見ていれば、その結果はわかるでしょうが。

   ちなみに日本でも小麦は作れますが、その需要のほとんどを外国からの輸入に頼っています。その理由のひとつには、これまでの農政の基本がコメであり、『麦は安楽死』といった言われように重要視されてきませんでした。でもいずれ、それを見直す日がくるかもしれません。