蚕と絹のあれこれ 46

養蚕の言葉  その4


   蚕業試験場で病理を担当しはじめて5年ほどたったある日、妙齢の女性が病理研究室を訪ねてこられました。

   お話しをうかがうと『蚕の糞をもらえませんか』というのです。どうやらその家のおばあさんが、蚕の糞を煎じて飲みたいと言うらしく、それが高血圧に効くと信じているらしい。

   農協に行ったら、『試験場なら分けてもらえるだろう』と言われてやってきたというのです。
   ただ、なぜ私を訪ねて来られたのかはわかりませんが、『蚕は試験用に各令を飼育しているのでご希望なら差し上げますが、蚕体消毒をしているので糞には薬剤がまじっています。それを煎じて飲むのはよろしくないと思います。』とお話しすると
   『では、'おしゃりこ'というのはありますか? 白い蚕らしいのですが』とおっしゃるのです。

   『'おしゃりこ'というのは白彊病1(はっきょうびょう)というカビの病気にかかった蚕の古い呼び名です。感染して死ぬとカビの胞子によって白く粉をふいたような姿になって、白い米をシャリというのでオシャリ蚕(こ)と呼ばれたと聞いています。このあたりでは見かけたことがありません。黄彊病2(おうきょうびょう)緑彊病3(りょっきょうびょう)なら、たまにですが晩秋に出てきます。
  昔から'おしゃりこ'は漢方薬の原料として解熱や鎮痛剤などに使われたようですが、カビの胞子よりも市販の薬を飲まれた方がいいでしょう。』とこちらも丁寧にお断りしました。
1 白彊病 ;  ボーベリア・バッシアナという糸状菌による病気です。胞子の色は白色で
    す。 稚蚕にも壮蚕にも感染しますが、感染して翌日には皮膚に油が滲んだような
    病斑があらわれます。挙動は不活発で食欲不振になります。
2 黄彊病 ; かつてはイサリア菌と考えられていましたが、白彊病と同じボーベリア・
    バッシアナによる糸状菌病とされています。胞子の色は白色から薄黄色まで多様
    です。感染した皮膚の場所には大型の病斑が生じます。
3 緑彊病 ; 病原菌はスピカリア・プラシーナ。胞子の色は緑色。桑園害虫での罹病
     をうけて初秋から晩秋期にかけて発生します。感染した皮膚の場所には輪郭が
     はっきりした黒色楕円形の病斑ができます。

   白彊病は糸状菌、いわゆるカビによって引き起こされる昆虫の感染病です。カビによって死んだ蚕は硬化するので硬化病とよばれています。
   硬化病は、死亡した蚕が腐敗せずに硬化して菌糸が体表を覆ったのちに胞子に包まれます。その胞子の色はカビの種類によって白や黄色、緑色になり、その色から白彊病や黄彊病、緑彊病という名がついています。
   感染は、蚕が脱皮したての頃に胞子が皮膚について発芽し、皮膚の薄いところから発芽管を侵入させて体内に入ると芽胞4(がほう)を作ります。芽胞は体液にのって全身をまわり各所で発芽して、蚕の栄養を吸収しながら菌糸5(きんし)を伸ばします。そして蚕が衰弱して死ぬと菌糸は一斉に体表へ出て胞子を作るのです。
4 芽胞 ; 昆虫の体液の中で菌糸から作られる胞子の一種です。
5 菌糸 ; 糸状菌の胞子が発芽して伸長した栄養体のことで円筒形の細胞が一列に
     連なって糸状になっています。

   蚕の病気にはこの硬化病のほか細菌によって体が溶ける軟化病6や膿病(のうびょう)をはじめとするウイルス病7、ヨーロッパの養蚕業を壊滅させた微粒子病8(びりゅうしびょう)があります。

   蚕には人のように免疫機能がないために一度ウイルス病が発生すると何十万頭にも広がって違作9(いさく)になってしまいます。このためウイルスについての研究はかなり進んでいました。
   しかし細菌は軟化病のうちの卒倒病10(そっとうびょう)敗血症11(はいけつしょう)を除いてほとんど研究がされていません。そのわけは、煩雑な手間をかけて細菌の種類を同定しなければならず、しかも桑の葉には抗菌物質12があり、蚕自身にも防御機能13があって菌を接種しても発症するとは限らないからです。つまり病気の再現性に乏しいのです。
   でも現場では、起縮み14(おきちぢみ)や生育不良に加え原因のわからない病蚕がつぎつぎに持ち込まれます。症状からは細菌による病気と思われても病原を特定できないことが多いため、いずれ細菌病に取り組まねばと思っていました。
6 軟化病 ; 細菌やウイルスによって蚕が下痢や吐液、縮小などの症状を示して死亡
   する病気です。体が軟らかく膨れて死亡することから軟化病と呼ばれます。壮蚕
   期に発症し、死亡後、体が腐乱して赤変するのはセラチア菌による細菌病で、黒
   変するのはシュードモナス菌によります。
7 ウイルス病 ; 昆虫ウイルスによる感染病の総称です。多角体という包埋体をつくる
   核多角体ウイルスや細胞質多角体ウイルスのほか、多角体をつくらないウイルス
   性軟化病や濃核ウイルスがあります。
8 微粒子病  ; 蚕の卵を通じて次世代へ感染がつたわる原虫病です。感染した蚕は
   食欲不振、挙動不活発、軟糞などの症状を示し、蛹や蛾で発症することもありま
   す。
9 違作 ; 蚕が病死して繭の収量が大きく減少してしまうことをいいます。
10 卒倒病 ; 結晶毒素をつくるバチルス菌による蚕の細菌病です。毒素により卒倒
    したように突然死亡することから、名がついています。
11 敗血症 ; セラチア菌やシュードモナス菌が腸管または皮膚の傷口から侵入して
    体液中で急激に繁殖して蚕を死亡させる細菌病です。
12 抗菌物質 ; 桑の葉の成分にはクロロゲン酸などの細菌の繁殖を抑制する物質
    が含まれています。
13 防御機能 ; 蚕の体は硬いクチクラで覆われて物理的な防御を果たし、腸管内の
    高いPHは細菌の増殖を抑え、体液中の食作用をもった血球は異物を取り込
    んで防御しています。
14 起縮み ; 脱皮したあと体が小さく縮んで生育不良になる蚕のことです。

  そのうちに国の蚕糸試験場で3ケ月ほど細菌学を学ぶ機会があって、培地15(ばいち)の作り方や菌の継代16の仕方、菌種の同定17(どうてい)などの基礎的な技術を身につけることができました。

  当時は筑波の学園都市も開発途上だったので荒涼とした風景が広がっていて、そのなかで昭和55年に移転したばかりの蚕糸試験場はレンガ模様の建物でひときわ立派に見えました。
  まさか3年後には組織が縮小され、8年後には蚕糸・昆虫農業技術研究所に改められ、その後、農業生物資源研究所に統合されるとは。そして若い病理の研究者たちがバイオテクノロジーの分野へ移っていくとは思ってもみませんでした。
15 培地 ; 微生物や細胞組織を増殖させるために作られた無菌の固形または液状
    の栄養を含む基質です。
16 継代 ; 微生物を長く維持・保管するため、新たな培地に植えかえて培養をつづ
    けることです。
17 同定 ; 微生物の形態的、栄養要求、生化学的などの特性を調べて種類を特定す
    ることです。細菌の同定ではバージーマニュアルという細菌分類便覧を使いま
    した。

  県へもどってからの研究では、蚕の腸内に住む細菌のなかに腸を溶かす変異種があることがわかり、それをウイルスと一緒に接種するとウイルス感染の割合が飛躍的に高まることもわかりました。
  その変異株がなぜ腸内で急激に繁殖するのかはわかりませんでしたが、桑の品質や蚕のおかれた環境などさまざまな要因が組み合わさって腸内フローラ18がくずれ、その結果、起こるのだろうと考えています。

  さらに当時は、ガスマスクをつけて刺激臭の強いホルマリンを使って蚕室蚕具を洗浄消毒していましたが、高度さらし粉と消石灰19を組み合わせた無臭かつ廉価な消毒法がウイルスをはじめ各種の病原に効果のあることがわかりました。この消毒法は当初さほど広がりませんでしたが、のちにホルマリンの使用が禁止されたことで見直され、使われるようになりました。
18 腸内フローラ ; 腸内にある膨大な数の細菌類が一定のバランスを保ちながら生
      息している状態をいいます。
19 高度さらし粉と消石灰 ; 高度さらし粉と消石灰を2:8の割合で混合し、200倍に
      水で溶かした乳液を消毒薬に使います。動力噴霧器の吸引口は木綿布で覆っ
    て目づまりを防ぎます。

  こうして10年がたって蚕業試験場での研究生活は幕をとじ、のちに再度、蚕と関わるようになったのは蚕糸行政の世界でした。