蚕と絹のあれこれ 31

「青天を衝け」における養蚕の風景

    NHKの大河ドラマで「青天を衝け」という番組があり、明治・大正の実業家で日本の資本主義の父ともいわれる渋沢栄一の生涯が描かれています。 渋沢は埼玉県深谷市(榛沢郡血洗島村)で養蚕と藍玉づくりをしていた富農の家に生まれています。
   NHKはできるだけ当時の暮らしぶりを忠実に再現するため安中市に広大なロケ地を確保し、桑畑から藁ぶき家、蚕の飼育にいたるまで、細部にこだわって制作に取り組んでいました。 ただ、養蚕の経験がある人は少なく、幕末・明治の養蚕となるとずいぶん今とは違うため容易ではありません。そこで養蚕との関わりが深い東京農工大学に指導を求めたのです。この学校は明治5年の蚕病試験場をルーツにもつだけに歴史は古く、その流れをくんだ蚕学研究室の横山准教授に指導を頼んだのです。
   依頼は、真っさらな土地を年季の入った桑畑に再現しなければならず、桑の木も今とは姿が違います。しかも撮影の開始までに半年しかないというのです。そこで大学の圃場にあった古い桑の木を900本ほど移植したほか、富岡市内の老木の桑を900本も移植したのです。
   老木を移植するのは難しく、移植できる時期も決まっています。案の定、春になっても芽が出なくて気を揉んだようですが、コロナの影響で撮影が二か月ほど伸びた間に芽吹いてなんとか絵になる桑畑ったそうです。


写真は横山岳准教授のメイキングPDF
   また、幕末のころの蚕は体は小さく、繭も俵型をしていて小ぶりなのです。映像に蚕がうつれば、見る人が見れば違いがわかります。そこで江戸時代から伝わっている小石丸という品種を関係機関に飼ってもらって用意しています。
   ちなみに蚕を触れるような若い女性はまずおりません。和久井映見さんたち女優陣も御多分にもれず虫が大の苦手ときています。リハーサルではキャーキャー言って気味わるがっていたようですが、本番になるとニコニコしながら熟蚕をつかんでいるので俳優さんのプロ意識には脱帽したといいます。



左が現在の蚕品種と繭、右は古来の蚕品種小石丸とその繭(写真は横山岳准教授)
小石丸は明治38年に貞明皇后が東京農工大学の前身である東京蚕業講習所に行幸された際、献上された蚕品種で、その後皇居で飼育され続けています。

   また、ドラマではCGを使って蚕がダンスをする映像が流されましたが、視聴者からは気味が悪いとかホラーだといった声が寄せられたそうです。 蚕は繭をつくる前になると足場をつくる場所をさがしてユラユラと動きます。ダンスをしているように見えますが、誇張でも創作でもありません。このダンスが始まると農家は慌ただしい上蔟作業に追われるのです。
   上蔟とは糸を吐き始めた蚕を繭をつくるための蔟(まぶし)に移すことです。かつてはワラで編んだ蔟でなく、木の枝を束ねた中に繭を作らせたこともあったようです。試してみてもうまくいかず、美術のスタッフが一週間かけて枝に繭を張りつけたそうです。その苦心の力作は飼育室の背景に二秒間、映っただけでした。
   このほか、桑の葉を枝からとったり、桑切包丁で刻んだりする作業も違和感なく見ることができました。

     木の枝のなかにいる熟蚕         繭を作った様子(写真は横山岳准教授)
   渋沢栄一と養蚕とのかかわりは、昭憲皇太后が宮中で養蚕を行いたいとのご希望があり、明治四年に養蚕の御進講を行っています。種々、ご下問に対して奉答し、その結果、宮中における御親蚕の実施が決まりました。渋沢は当時、大蔵権大丞という大蔵省のナンバー4の立場にあったうえ蚕の飼育には自信がなかったので姻戚の田島武平に御親蚕のお世話役を頼んでいます。
   また、明治五年に富岡製糸場が設立されると従兄の尾高惇忠を初代工場長に推薦しています。
   明治日本の経済を支えた養蚕業と、経済の近代化を導いた渋沢栄一との間には、まだまだ多くの関わりがあったと思われます。 残念ながら養蚕をはじめ絹産業はその後の百年で衰退してしまいました。でも渋沢の手がけた銀行や証券取引、造船や運輸、建設といった事業は、今なお日本を支えています。渋沢は「何事も政府に依頼せむと欲するは国民一般の元気なき表徴であって、不甲斐なき至りと言わねばならない」と言ったように、養蚕もいち早く民間の自由な競争の中で切磋琢磨していれば、違った景色になっていたかもしれません。