蚕と絹のあれこれ 40

 養蚕業が消えた日

   産業としての養蚕業や製糸業が終焉を迎えたのは平成9年5月のことでした。養蚕業はカイコを飼って繭をつくる養蚕農家のことであり、製糸業はその繭を買って生糸をつくる業者です。これら二つの業種にかかる法律や制度が廃止された途端にもろくも消えてしまったのです。

   その予兆は平成5年の夏からありました。生糸の相場が下落を始めたのですが、相場に介入して価格を安定させる国の制度が動かなかったのです。価格はひきつづき下落を続け、翌年の春には国内の製糸業社のほとんどが倒産したり廃業を余儀なくされてしまいました。養蚕農家は春繭の出荷を前にして売り先を失ってしまったのです。
   これには株式相場の仕手たちが生糸相場に大がかりな介入をしたこともひとつの要因ですが、国はガットルグアイラウンドの貿易交渉において農産物の価格を支えるという制度をやめる意思を固めていたのです。

  それにしても日本の伝統ある絹織物業が、なぜこのような結末を迎えたのでしょうか。巷間言われるように生活スタイルの変化によって着物の需要が減ったせいでしょうか。それとも化学繊維によって絹の需要が減ったからでしょうか?  着物への需要の変遷をみながら考えてみたいと思います。

  はじめは明治の中期の絹の需要です。江戸時代の身分制度にもとづく服装の定めがなくなり、新たに洋服が庶民の暮らしに入ってきます。ただ、洋服は男性の外での正装着であり家では着物で通していました。女性は家でも外出時でも着物です。大奥で使われていたお召し(ちりめんの一種)などが上流階級に広まりますが、多くは儀礼用以外に絹の着物を着ることはありませんでした。日常は地味な木綿の縞(しま)織物ですごしています。

  明治も終わりころになると絹織物の染色技術が改良されて大量生産が可能になり、価格の面でも庶民の手がとどくようになりました。外出着に用いられる縮緬(ちりめん)のお召しなどには派手な絵柄のものが多くなり、人々の絹織物への潜在的な欲求に火がついて需要が拡大しはじめます。それに羽織がはやったのもこのころです。日常着でも上に羽織れば礼装扱いという風潮もうまれました。

   大正から昭和初期にかけては、技術的にも色柄的にも着物の全盛期を迎えます。黒留袖(くろとめそで)が既婚女性の礼服に定着したほか、新たに社交服としての訪問着が生まれ、さらには普段着やちょっとした外出着には紬(つむぎ)の銘仙(めいせん)がはやりました。銘仙は桐生や足利、伊勢崎、館林、佐野、八王子といった関東一帯に産地がうまれ、大胆な柄や色づかいで絹を普段着にまでひろげました。大正末期の銀座では道行く女性の洋装は4%にすぎず、ほとんどが着物姿でその半数は銘仙を着ていました。また昭和10年の調査では、中流家庭の独身女性は31枚の着物をもち、洋服は4着程度でした。

   戦時中は質素倹約が求められ、男性は国民服、女性はモンペ姿と決められていました。しかし農村部の中年女性でも着物は22枚ほど持っていて、都会では派手さを抑えながら着物姿で歩いていました。
   終戦から昭和30年代半ばまでは再び銘仙のブームが起こります。ただ、5年ほどですたれてしまい、かわって洋服が急速に広がります。さらに海外では化学繊維が開発されて絹のニーズが激減し、日本からの絹の輸出がなくなりました。

  昭和40年から50年代は高度経済成長とともにフォーマルな礼服を中心に着物の需要が高まり大量消費のブームがおこります。着心地よりも見た目の豪華さが求められ、高価な着物が次々売れていきました。絹の国内消費をみると昭和45年には2万5千dの生糸が使われ最盛期だった大正14年の2万8千dにつぐ消費量となっています。
  こうした旺盛な絹需要に対して国産の繭だけでは足りなくなって生糸の輸入を始めます。日本の技術者たちが中国やブラジルで養蚕や製糸の指導を行い、全自動の製糸機械を持ち込んで生糸の品質を高めました。 このことは、のちに安い生糸の輸入となって国内価格を押し下げることになったほか、高性能の製織機を持ち込んで絹織物まで現地生産に向かったのです。

   経済の安定成長に陰りがみえた昭和50年代半ばから現在にいたるまで絹織物の需要は漸減してきましたが、冠婚葬祭や卒業式、成人式やお宮参りなどの行事や茶道、花道、舞踊などといったところで着物は堅調な需要に支えられています。養蚕や製糸業が終焉を迎えた平成9年でも着物産業は1兆円の市場規模がありました。着物の需要がなくなったわけでも化学繊維に置きかわってなくなったわけでもありません。生産コストの安い中国やベトナムに生産拠点を移して安い生糸や着物が流通するようになった一方で、国内の価格を押しさげて養蚕や製糸業の衰退を招いたのです。

   人の労働を原資とする農産物の生産では外国産と国内産との間に賃金による内外価格差があり、それが自由貿易において国内生産を価格面で圧迫する構図がみえてきます。グローバル化によって国内産業の空洞化をもたらした典型的な事例といえるでしょう。

  ちなみに、国は混乱に対処するため平成7年に繭の価格を一定に定め、国と製糸業社が負担するスキームをつくりました。一見、救済策のようですが、繭の生産が増えれば国庫の負担も増えていくわけで、養蚕農家にとっては前途に希望は感じられませんでした。それに零細な製糸業を整理統合して経営体質を強化するという国のねらいも、価格暴落によって一気に廃業が進んでしまったのです。
   かつて(財)大日本蚕糸の副会頭だった本間知至氏は、『昭和45年頃に蚕糸絹業界に経営体質の改善を呼びかけたが、着物需要が旺盛だったので誰も相手にしなかった。体力のあったそのころに、輸入問題も含めて取り組んでいれば今のような姿にはならなかっただろう。』と話しています。残念ながら、時計の針がもどることはないのです。
   
                既婚女性の正装 黒留袖
                                     銘仙の生地と柄
   
                 訪問着