蚕と絹のあれこれ 33

幕末における蚕種の輸出

  江戸時代の四国に伊予・宇和島藩という小さな藩がありました。石高は十万石。仙台の伊達家の分家にあたりますが、戦国大名である伊達政宗の嫡男がこの藩の祖になっています。 四国の辺境の地にありながら八代目藩主の伊達宗城(だてむねなり)は松平春嶽や山内容堂、島津斉彬とともに幕末の四賢侯とよばれました。その人物の日記が残されています。


   宗城は若い頃に蘭学を学び、藩主になってからは幕府に追われた蘭学者の高野長英をかくまったり、若き日の大村益次郎を登用して藩の軍政を改革したほか、自力で蒸気汽船をつくるなど進取で開明的な人物でした。幕末には四侯会議に参画して幕政にかかわり、維新後は新政府の外相として活躍しています。
  日記では明治元年の四月に、『蚕卵紙を買い取っているのはフランスやプロシアの商人であり、120人ばかりいて購入価格は600万両に及んでいる。商人たちは函館では買えずに新潟港へ来ているようだ。実際、どこか適当な場所を開港場として取り決めたい』とあります。また、同じ月に『蚕卵紙(さんらんし)で得た金が奥羽列藩同盟(おううれっぱんどうめい)の武器の購入に充てられているようだ』とも書かれています。蚕卵紙とは蚕蛾が卵を生みつけた和紙のこと。一枚に2万頭の蚕の卵がついています。
  当時の政情をみると、明治元年1月に鳥羽伏見の戦いがあり、幕府軍が敗走して薩摩や長州などによる新政府が発足しています。4月には政府軍が東へ進み江戸城を無血開城しました。東北では会津藩を中心とした奥羽列藩同盟ができ、新政府軍に対抗する準備を整えていました。
  武器を調達したのはプロシアのヘンリー・スネルという商人です。新潟に拠点をおき、ライフル銃や弾薬、ガトリング砲などを売って代金のかわりに何万枚もの蚕卵紙を受け取っています。大河ドラマの『八重の桜』で綾瀬はるかさん演じる山本八重が会津城にこもって撃ち続けたのはスネルが提供したライフル銃でした。
  幕末にヨーロッパ諸国が相次いで日本へやってきたのは蚕の卵が欲しかったからです。当時、フランスやイタリアなどでは蚕の微粒子病が蔓延して、養蚕や製糸、絹織物業に大きく依存した国の経済が致命的な打撃をうけていたのです。そこで病気のない蚕の卵を求めて世界中を探し、最後に日本にきて見つけたのです。
  ですからヨーロッパ列強は協調して幕府に貿易の自由化を求め、蚕卵紙や生糸を輸入することに力を注ぎました。幕府が蚕卵紙の輸出を認めたのは通商条約の締結から8年後の慶応元年です。明治まであと3年という時でした。幕府は蚕卵紙を輸出すると生糸が売れなくなることを心配して輸出に自主規制をかけていたのです。
  しかし、イタリアやフランスの蚕種仕入人(さんしゅしいれにん)とよばれる人たちは信州や東北地方の山奥へ入り込み、ひそかに蚕卵紙を買い集めて西欧に運んでいました。その取引があまりにも高値だったので農家はこぞって作るようになり、粗製乱造がはびこって粗悪な蚕卵が増えていったのです。列強からは条約の不十分な履行が品質の悪い蚕卵紙の密貿易につながっていると非難され、幕府は自由な売買と蚕卵の品質検査に踏み切らざるを得なくなったのです。  
  ちなみに、明治元年の日本の総輸出額は1555万円でしたが、そのうち生糸が 40%をしめ、蚕卵紙は24%、お茶が22%となって、この3品目で9割ちかくを占めていました。こうした蚕卵紙への要望はフランスの細菌学者であるルイ・パスツールが病原体をつきとめて防疫法を確立する明治10年代まで続きました。日本でも明治以降、母蛾(ぼが)を顕微鏡で検査して病気を防ぐパスツールの方法をとりいれ、一度も病気が発生することはありませんでした。