蚕と絹のあれこれ 34

蚕種会社を訪ねて
  四国の西端から九州にむかって細長い竜骨のような半島がのびています。佐田岬半島です。瀬戸内海への入り口にあって豊後水道の潮流を半分ほど堰き止めているため、先端部は複雑で急な潮流となり、昔から船の難所とされてきました。この半島のつけ根に保内町という古い港町があります。町を流れる二本の細い川が海との間に小さな扇状地をつくり小さな街並みができています。 この町は、幕末から明治にかけて阪神と大分、宮崎などを結ぶ海運の中継地になり大いに栄えました。いまも残る洋館やレンガづくりの工場は昔日の面影をとどめています。
  街中を通る道のそばに第二十九銀行の記念碑があります。それを横に見ながら細い小道に入ると白いモルタルづくりの洋館が見えてきます。(株)愛媛蚕種(えひめさんしゅ)の社屋です。白い洋館につづいて木造三階建ての建物が小道にそって山の方へ伸びています。洋館は明治の終わりに事務所として建てられ、木造の方は蚕の飼育用として大正八年に建てられました。
  洋館の玄関を入るとヒンヤリとした空気がただよい、その先に十坪ほどの古い事務室がありました。陽の差し込む中庭に面して置かれています。 事務室には黒光りした年代物の大金庫があり、木の床や壁、窓枠などは使い込まれて丸く擦りへっています。時代の流れを感じさせます。
  中庭にでるとカイコの飼育棟や蚕蛾の採卵場などの建物が中庭をかこむように建てられています。山の斜面を利用して作ってあるせいか奥の方は一階少なくなっています。横にある木の階段をきしませながら二階へ上がると廊下に面してカイコの飼育部屋が並んでいます。
  お手伝いに来ていた女性たちが種繭(たねまゆ)を切って中から蛹(さなぎ)をとりだして雌雄に分けていました。 蚕種会社では繭よりも中の蛹の方が大切です。品種や雌雄に区物して蛹を保護しておけば、交配したい羽化したての蛾をただちに交尾させたり卵を産ませたりできるわけです。
   長い廊下を歩いていると窓から陽がさしこんできます。やわらかな光が心地よく、よく見ると窓のガラスは厚みがあって歪みもあります。創建当時に作られていた昔のガラスのままなので換えのガラスはないといいます。
  奥まった所には山をくりぬいて作られた大きな冷蔵庫があり、もとは氷庫(ひょうこ)として使われていました。氷を詰め込んだ氷庫の下に蚕種を保管する部屋をつくり、下りてくる冷気によって蚕種を保護していたのです。これができまでは、春にしか飼えなかったカイコですが、蚕種を長く保存できるようになって、夏や秋にも飼えるようになったのです。おかげで蚕種の需要はさらに高まり大正時代にはグンゼや片倉に次ぐ全国三位の蚕種会社になっていました。
  ところで、ここには年来の友人がいるです。彼はこの会社の五代目となる社長です。東京で同じ大学に学んでいたこともあり、妙に気が合いました。
  平成6年に国が政策を大きく変えたために会社は厳しい経営に陥ってずいぶん悩んだはずですが、泰然自若として弱音をはくことはありませんでした。  黙々とお客の要望に応えて家業を守りつづける姿は老舗(しにせ)の大店(おおだな)の主人といったところでしょうか。風貌も創業者に曾祖父に似ています。
  日本からは、ほぼすべての蚕種会社が消えてしまい、この愛媛蚕種を含めて三社が残るだけになっています。その間、国内の蚕糸業は壊滅的になり、 『蚕種の注文はずいぶん減ったねぇ。 最近は稚蚕(ちさん)の飼育を頼まれるので農家には蚕を送っているよ』 とか『繭をつくるよりも、製薬用に蚕の注文がくるんだ』 と言っていました。そしてそのうち
 『農家よりも幼稚園からの注文の方が多くなったわ』 と笑います。
  建物が登録有形文化財の指定をうけると『このあいだ、映画の撮影がここであって木村佳乃もきていたよ』   『いろいろな人が見学に来るんだわ』 と飄々(ひょうひょう)と話しています。
  なんともケレン味のないこの人物は、何食わぬ顔をして黙々と蚕を飼って蚕種をつくり続けています。厳しい中にあっても誠実に努力し、しかし生き方にはある種ののどやかさがあって深刻さや一途さとは縁がないのです。
  このような人物がごく普通に市井で暮らしているところが、伊予が良き風土であることの証でもあるでしょう。
         
  第29銀行の記念碑      白いモルタルづくりの洋館   木造三階建の蚕室

       
 中庭を囲むように建つ蚕室     蚕室内の廊下      部屋に番号がついている
     
   奥から見た渡り廊下      石積みの冷蔵庫     大正時代の氷庫(白い建物)  
  明治時代の保内の港周辺。見えている建物が日進館(現在の愛媛蚕種)