蚕と絹のあれこれ 36

卑弥呼の贈りもの


  日本の古代の様子をしるしたものに魏志倭人伝(ぎしわじんでん)があります。西暦280年頃に中国で書かれた三国志のなかに魏書(ぎしょ)の巻というのがあって、そのなかの東夷伝倭人之条(とういでんわじんのじょう)を略して魏志倭人伝とよんでいます。
   そのなかで日本は倭国(わこく)、日本人は倭人(わじん)とよばれ、倭国にある邪馬台国(やまたいこく)や女王・卑弥呼(ひみこ)についても書かれています。

   この当時、中国のまわりには服従しない異民族がいて、東にいる倭人を東夷(とうい)といい、西のチベット族は西戎(せいじゅう)、南の越族は南蛮(なんばん)、北のモンゴル族は北狄(ほくてき)とよんでいました。その倭人が朝貢してきたので中国の人たちはその容姿や風習に興味をそそられたのでしょう。詳しく書かれています。

   『倭国で作られているのはイネやキビ,ヒエ,アワなどの穀物であり、ほかには苧麻(ちょま)や麻がある。』と。 苧麻とはイラクサ科のカラムシという多年生の草のこと。内側にある皮を細かく裂いて繊維をとりだし撚って糸にします。麻も同じように茎の内皮で糸をつくります。
   また、『桑を植えて蚕を飼い、繭から糸を紡いで目の粗い絹織物や真綿入りの服を作っている』とあります。絹の製品や真綿、苧麻、麻などは租税として納められ、庶民はヒノキやカジノキ、コウゾ、フジなどの樹皮からとった繊維で衣類をつくっていました。

    倭人は『裸足で歩き、手づかみで食事をする。海にもぐって魚や貝類を捕ることに長けていて、大きな魚やサメを避けるために男は顔や体に入れ墨をして、幅の広い布を体に巻きつけ腰のあたりで結んでいる。女は赤い丹(に)で化粧をして布の中央に穴をあけて頭を通して着る貫頭衣(かんとうい)を着用している。』とあります。まるで南方の海洋民族をみる思いです。

   こうした倭人の風俗が北九州沿岸の国だけなのか、倭国全体なのかはわかりません。北九州から水行二十日もかかる投馬国(とうまこく)や、さらに遠くの邪馬台国には5万から7万戸(49万人)の家があったので、食糧生産には広い平野や灌漑できる川があったはず。つまり内陸型の農耕生活が営まれていたでしょうから、風俗や習慣などは異なっていたと思われます。

 末盧国、伊都国、奴国、不彌国の位置と投馬国、邪馬台国の位置(仮説)
   倭人伝によると、北九州沿岸の末盧国(まつらこく)や伊都国,奴国(なこく),不彌国(ふやこく)には邪馬台国から派遣された長官や副官がいて国を統治していたようです。

   九州には邪馬台国の支配をうけない国が多くありましたが、邪馬台国は中国との関係を築くために海を渡る技術をもった沿岸四か国をまず従属させたのでしょう。そして西暦238年に女王・卑弥呼は中国の魏へ朝貢の使者を送っています。

   使者は当時の外務大臣といったところでしょうか。まず、魏が統治していた朝鮮半島北部の帯方郡(たいほうぐん)を訪れ、その後、魏の都である洛陽(らくよう)に連れて行ってもらい天子に拝謁しています。そのとき卑弥呼が献じた品々は男の生口(せいこう)4人と女の生口6人、班布(はんぷ)2匹2丈です。生口とは奴隷をいいますが、この場合は班布をつくる技術者をさしているのでしょう。班布はカラムシで編んだ軽くて白い布のこと。長さは30bもあり、かなりの労作といっていいでしょう。

    この朝貢に魏の皇帝はおおいに喜び『汝の忠孝をいとおしく思い、汝を親魏倭王に任じて金印と紫綬(しじゅ)をさずける。ほかに龍の模様のある錦(にしき)やチヂレのある毛織物、茜(あかね)色や青色の布、金、  白絹、刀、銅鏡などをさずける』との詔書を与えています。            
   卑弥呼が贈った布にくらべ、はるかに豪華な品々です。かつて奴国(なこく)が中国に朝貢したときは不老長寿の草としてウコンを献上したらしく、卑弥呼としては技術の粋を尽くしたカラムシ織りを贈ったのでしょう。さすがに魏の答礼の品々をみて格の違いにショックを受けたのかもしれません。

   そこで5年後の243年に再度、使者を送り、今度は赤、黄、青の色糸で織った錦や厚手の絹地、細手の絹糸で織った絹布、真綿入りの着物、弓矢などを贈っています。わずかの間に草の織物から絹の織物に変わっています。 絹織物を作るには工程ごとに高い技術が必要です。一朝一夕にできるものではありません。では5年の間に何が起きたのでしょうか。

    弥生時代の遺跡から絹織物が出土するのは九州北部の内陸部です。また、九州以外で絹織物が出土するのは西暦300年の古墳時代以降です。つまり、卑弥呼がいた時代には今の福岡県南部や佐賀県あたりでしか絹織物は作れなかったのです。

   そこでは大規模な集落があり、鉄剣や銅剣,銅矛(どうほこ),銅鏡,ガラスの勾玉,それに銅製品の鋳型なども見つかり、技術的にかなり進んだ国だったようです。なかでも佐賀県の吉野ケ里遺跡では紫,赤,橙,緑に染めた絹糸で織った錦(にしき)が見つかっていて、卑弥呼が2度目の朝貢に使った絹織物とおなじものがありました。

   つまり、九州北部には邪馬台国とは別の高い経済力をもった国々があり、独自に大陸との交流によって各種の技術を採り入れていたのでしょう。倭人伝でも『漢の時代に朝貢する国が三十ケ国』あったといいます。
   そして卑弥呼が大陸の魏王朝に朝貢して親魏倭王に任じられ、大国魏の後ろ盾をえて北部九州の国々を服従させることができたのではないかと思うのです。とすれば二度目の贈り物が錦などの絹織物になったとしても不思議ではありません。
  卑弥呼は呪術師としての能力はわかりませんが、地球儀を俯瞰した外交力をもった女性であった可能性はあるでしょう。