蚕と絹のあれこれ 39

蚕を詠んだ句


  県外から来た人からよく言われるのは『街に俳句ポストがあったり、マンホールのふたに俳句が書いてあったりと、さすが松山は俳句の町ですね』 。 言われてみればそうかもしれません。毎年、全国の高校生による俳句甲子園が松山で開かれているし、TVのプレバトの俳句コーナーで活躍されている夏井いつき氏も松山の人です。でも松山市が俳句の町と言われるのは、なんといっても正岡子規のおかげでしょう。

  子規は明治時代に活躍した俳人ですが、歌人や随筆家、小説家、国語研究家でもあり、我が国の俳句の近代化に大きな足跡を残しています。
  戊辰戦争が始まる前の慶応3年に松山城下に生まれ、東京の台東区上根岸において36歳(明治35年)の若さでなくなっています。幼少のころから母方の祖父に漢学の手ほどきを受け、12歳のときには漢詩をつくりはじめ、19歳では俳句をつくり始めます。その後、東京帝国大学に入学しますが中退し、26歳のときに新聞『日本』に入社して俳句の革新に傾注しはじめます。俳句とか短歌といった名前は子規によって作られています。

  子規によって詠まれた句は残っているだけで二万余もあり、そのなかにカイコに関するものが幾つかあります。

  26歳の春に詠んだ『夕月や ほのほの白き 蚕棚(かいこだな)』は、春の宵が迫るなか、蚕棚にさしかけた蚕箔のカイコが月明かりでほのかに白く浮かびあがっている様子をよんでいます。夕方に与えた桑の葉はすでに食べきっているのでしょう。

  30歳の春には『信濃路や 宿借る家の蚕棚』 と詠んでいます。信州信濃は昔から養蚕や蚕種の製造、製糸が盛んなところです。旅の途中で宿を求めたところ養蚕の繁忙期にあたっていたのでしょう。土間や部屋には所狭しと蚕棚が並べてありました。蚕棚はカイコの飼育用に作られる蚕箔をさし入れる棚のことです(写真)。

            蚕箔を差し入れてある蚕棚
  似たような句に『蚕飼(こかい)する 村に宿屋もなかりけり』があります。蚕飼はカイコを育てることで養蚕を意味します。カイコの飼育が始まると家族総出で日に何度も桑の葉を収穫して与えます。村人たちは忙しくなり、宿を提供してお客を世話するよりもカイコの世話の方が手がかかるのでしょう。

  35歳の春には、『蚕飼(こかい)する国や仏の善光寺』 とあります。
長野県の善光寺でよんだものですが、子規は明治24年に木曽路を旅行した際に訪れています。この句を詠んだころには病で動くこともかなわず病床で詠んだものでしょう。

  『一夜二夜(ひとよふたや) 夜を寝ぬ蚕飼(こかい)(さかり)かな
蚕は三日ほど昼夜の別なく桑を食べ続けると一日だけ眠に入って食べなくなります。翌朝、幼虫は脱皮してひと回り大きくなって再び三日のあいだ寝ずに桑を食べつづけます。人も夜中に起きて桑を与えます。

  『寝どころも無き 賤(しづ)が家の蚕棚(こだな)かな』 蚕は育つにつれて場所を広げてやらねばなりません。棚を増やして足りないときは床にムシロをひろげて飼いつづけます。粗末な家なのに寝る場所さえもカイコに明け渡して、家族は部屋の片隅で小さくなって眠るのです。

  『田を売りて 今年始むる 蚕飼(こかい)かな』 
  明治のはじめ、アメリカでは大陸横断鉄道が開通して東海岸から西海岸まで鉄路が通ります。おかげで日本からは太平洋を渡って直接、アメリカの西海岸へ絹を輸出できるようになり、輸出が急増して養蚕業は活況を呈しました。カイコを飼えば儲かる時代だったので田を売って飼育道具をそろえて養蚕を始める農家が少なくありませんでした。

  子規の句はありのままの情景を五七五の十七文字で余すところなく写しとっています。ちなみに弟子の高浜虚子は『美しき人や 蚕飼(こかい)の玉襷(たまたすき)』という句があり、河東碧梧桐は『夕暮れのほの暗くなりて 蚕棚(かいこだな)』と詠んでいます。なお、玉襷とは和服の袖や襟を細ひもでたくし上げた姿をさしています。

  大正天皇のお后となる九条節子姫(のちの貞明皇后)が明治33年に詠われた御歌に『限りなく 御國(みくに)の富やこもるらむ 賤(しづ)が蚕の繭のうちにも』とあります。当時、日本が輸出できるのは絹織物や生糸しかなく、これらによって外貨を獲得し富国強兵をはかっていました。皇室も庶民も格調の高い精神で支えられたリアリズムのなかで生きていたのです。そうした明治という時代の雰囲気がよくあらわれています。