桑について三話
はじめて桑の木を見たのは神奈川県の津久井にある実習農場でした。府中にある農学部のキャンパスにも農場はありましたが、桑の木があったかどうか定かではありません。津久井の農場は養蚕学科のために桑畑や飼育施設、それに寝泊りができる研修施設があって3年生になるとそこに2週間ほど泊まり込んで蚕を飼いました。一学年に20人しかいない学科にしてはぜいたくな施設です。明治17年の蚕病試験場が学校の祖となっているだけに、その流れをくんだ学科を大切にしているのでしょう。
実習では桑畑で「桑爪」という刃のついた鉄製の指輪を人指しゆびにはめ、葉柄を切りながら桑の葉だけを収穫します。とった葉は竹の桑籠につめて持ち帰り、中華包丁のような桑切包丁で細断したあと蚕に振りまくように与えるのです。 細断するのは蚕が小さいころだけで、少し大きくなると葉っぱのまま与えます。見るもの聞くもの全て初めてなので『これが養蚕というものか…』と感心したものです。
この葉っぱだけを摘んだのはこの時だけでした。農家では桑の枝を刈りとって枝ごと蚕に与えており、昭和50年代の当初には一般的な方法になっていたのです。『桑を摘む』といった和歌に出てきそうな作業は桑の木にダメージが少ないかわり、人にはきつい作業です。蚕が育つほどに食べる量が増え、朝から晩まで家族総出で桑摘みに追われたことでしょう。実習ではあえてそうした先人の苦労を体験させようとしたのでしょうか。おかげで昔ながらの丁寧な飼育のしかたは身につきました。
次に桑とかかわつたのは蚕業試験場に就職したとき。新人の初仕事に桑の生育調査が与えられました。
春になると桑も新芽が膨らんで、さらに葉が開いて伸び始めます。膨芽(ぼうが)、破苞(はほう)、脱苞(だっぽう)、燕口(えんこう)、第一開葉(だいいちかいよう)、第二開葉…と進むので毎日観察しては記録をつけ、平年と比較しながら桑の収穫量を予測するのです。
蚕の数は収穫できる桑の量によって決まるので『予測が違えば農家では桑が足りなくなる』と脅かされたものですが、農家は長年の経験で自分の畑の桑の量はわかっているし、遅霜(おそじも)にやられないかぎり毎年さほど変わらないのです。それに発芽の日は三月の平均気温から予測できたし桑の収穫量も予測が可能になったので二年でお役ご免となりました。それでも人生初の仕事だけあって印象が強かったのでしょう。今でも桑が芽吹きはじめると心はずむ思いがします。
遅霜といえば四月下旬になっても霜がおりたりします。桑やお茶は新芽や新葉が枯れてしまいます。『八十八夜の別れ霜』といわれるように立春から数えて八十八日目までは霜への警戒が必要なのです。 茶園では高いポールに扇風機をおいて気流を攪拌しながら霜が降りるのを防ぎます。
これを桑園につけるにはコストが掛かりすぎるので、『古タイヤを燃やして降霜を防ぐ』と専門書には書いてありました。ところが誰もタイヤを燃やした経験がありません。若い研究員で話し合って一度やってみようということになりました。近くの修理工場から古タイヤを40本ほど分けてもらって4ヘクタールの畑に置いて回りました。そして深夜に燃やし始めたのです。暗がりの中、灯油をかけて火をつけてまわると闇の中に点々と火がともって京都の五山の送り火のようにきれいでした。そして時間とともに煙で目がしみだしてタオルで口を塞ぎながら畑においた温度計を観測したのです。
そうして長い夜が明けて朝を迎えたわけですが、いつまでたっても明るくなりません。不思議に思って空を眺めると、試験場がある盆地の上空を黒い雲が覆って朝日をさえぎっているのです その黒い雲が黒煙の固まりだとわかると消防署への電話が鳴りやまず、試験場へも『洗濯物が干せない』とか『家に煤がふって汚れた』などの苦情の電話が殺到したのです。
何も知らずに出勤してきた場長は事の顛末を聞くと、「困ったものだ」という顔をしましたが、お叱りの言葉はありませんでした。まだまだ世の中、おおらかな時代でした。
この人騒がせな実証により、『氷点下になっても低く垂れこめた煙のために地表の温度は5℃より下がることはなく、防霜対策としては有効である。ただし人家の近くでは行わないこと』と本に書き加えることになりました。
桑との関わりの三つ目は、昨年、庭にある二本の桑の老木を切ったことでしょう。一本は桑の実がたくさんできる品種で、もう一本は雲龍(うんりゅう)という節ごとに枝が曲がるような変な品種でした。 植えてから25年は経っていたので太い根が四方へ広がっていました。掘り起こせないので、ノコギリで二日かけて地際部から切りとばしました。
大きな桑の木がなくなると何だか寂しくなって、やはり桑の実がたくさんできるという苗を購入して植えてみました。初めはひょろっとした頼りない苗でしたが、育つにつれて卵形の葉をひろげ枝は暗い紫色になって横へ横へと広がりだしたのです。 ふつうの桑なら枝は赤褐色で上に向かって直立し、葉は切葉か丸葉のはず。タジキスタンやキルギスあたりの桑ではないかと唖然となりました。いまさら植え替えるのも面だし、シルクロードの国にいったつもりでがまんすることにしました。