折々の記 79

地震こわい



   何となく嫌な感じがしていたら、家がユサッと揺れたかと思うと次にバキッという戸の鳴る音と同時に下から突き上げるような揺れがやってきました。地震です。緊急地震速報が大きな音で鳴っています。

   これは大きいと感じたので、『外へ出て!』と一階にいる妻に声をかけながら二階から階段を駆けおりました。座骨神経痛でいつもは杖を使っていますが、この時ばかりは杖がなくても滑るように階段をおり流れるように外に出ていました。

   さいわい揺れは短時間で収まりました。テレビでは震度4と言っていますが、揺れの大きさはかつての芸予地震の5弱と変わらない気がします。実際、揺れの時間が短かったので震度は 4とされたものの揺れ自体は 5相当だったようです。

   広島と愛媛の間の海底をとおる活断層にひずみが溜まり、堪えきれなくなって起こったとのこと。地震に伴う津波は瀬戸内海だから大して来ないと思っていましたが、目の前の海が隆起したら話は別かもしれません。ちなみにここは海抜6bです。何をおいても山に向かって逃げるのが賢明なようです。

   それにこのところ、宮崎県の日向灘では地震が多発しています。日向灘は南海地震と連動して起こる震源地といわれています。
   専門家によれば、東海沖、紀伊半島沖、四国沖、宮崎沖の連動した巨大地震が2030年からいつ起こっても不思議はないといいます。その震源の一端で、不気味な動きが起こり始めているのです。

   東・南海地震が起きれば、この地域の震度は7弱と推定されていますが、それがどのくらいの揺れかは想像つきません。この家を建てた会社はすぐに倒産したので、家自体も倒れやすいように思います。机の下に隠れるよりも、いち早く家から出る方が良いのかもしれません。

   東南海地震が起これば道後温泉の湯がとまります。日本書紀には684年10月14日の午後10時に白鳳地震、つまり東・南海地震があり山が崩れ、川があふれ、建物が壊れ、伊予の湯が出なくなったと書かれています。
   それ以来、南海地震がおこると必ず道後の湯の湧出がとまります。そのたびに近くの湯神社で祈祷すると、半年以内に湯が湧き出てくるのです。 道後温泉は火山性の温泉ではなく、地中深くの水が地熱によって暖められて湧き出ています。ですから、地震によって一時的に水みちがふさがれるのでしょう。
  被害にあったら温泉街のホテルに避難しようと思っていましたが、祈祷で忙しくてそれどころではないかもしれません。

   幕末から明治にかけて松山市南久米に三輪田米山(みわたべいざん)という人が住んでいました。この人は神社の神官であるとともに明治の三筆とよばれる書家としても知られ、のちに明治天皇の書道の指導役もつとめています。
   1854年(嘉永7年)の12月に東海地震と南海地震、豊予海峡地震が続いておこり、そのときの様子を日記に記しています。

   『七つ二分時、子供たちと手習い事をしているとき揺れだして、「これはっ」と思っているうちに大揺れとなった。棚のものや天井に吊ってあるものが落ち、唐紙が倒れ、本箱の蓋が落ちた。
  母、妹、姪、手習いに来ている子供たちが外へ逃げようとしたので瓦が落ちてくることを恐れて外へ出させなかった。タバコ三、四服飲むほど揺れた。南を見ると杉の木や柿の木が手に物を持って振るように揺れていた。座敷にみんなを座らせ「船に乗っていると思って南を見てごらん」と言って慰めているうちに揺れはおさまった。
   庇や窓、塀、屋根、天井などが落ち、門、肥屋、雪隠などが倒れ、蔵などが傾いた村が多くあった。家の内にいる人は一人もいない。夜になると三度揺れ、ローソクを買いに行くと母、妹、姪までも店についてきた。町の人はみな外にいる。田んぼにムシロを敷いている人もいる。
   七つ時地震。井戸水がなまぬるく、硫黄の香があってきごりが浮き、底ほどぬるい。瓦屋根の町は大きく破損し、多くの人が死んだ。
   強く揺れるときは早く外へでる。出ないときは家の木が落ちかかる事がある。私はこのことを知らなかったので後で聞いて本当に恐ろしく思った。ここに書いておく。あとに読む者は疑うことなく揺れだしたら速やかに家から外にでること。』と記されています。

   先人が残した忠告というのは金科玉条です。揺れが大きいと感じたらともかく外へ逃げることに決めました。
   家には水とコメが備蓄してあり、周囲の畑には年中、野菜が植わっています。とりあえず家から逃げられれば、そのあとのことはゆっくり考えることにします。