折々の記 74

二ノ丸史跡庭園を訪ねて


 十月に入って日差しが和らいだので松山城の二ノ丸史跡庭園を訪ねてみました。これまで二ノ丸の下にひろがる三ノ丸跡(通称、堀之内公園)には散歩で来ていましたが、二ノ丸を訪ねるのは初めてです。 
  本丸にのぼる黒門口から城壁にそって道をカギの字にまがって行くと山を切り開いたところにできた二ノ丸邸につきました。途中の道には砲台や櫓(やぐら)が置かれ敵の侵入を防ぐようになっています。
  二ノ丸邸は石垣と白い土塀で囲まれて正面入り口は二ノ丸御門とそれに続く多聞櫓で守られています。もともと藩主の生活や政務をおこなうために作られた屋敷なので表御殿や奥御殿などの建物などがありました。いまは西洋式の流水庭園や池と岩からなる日本庭園になっています。さらに柑橘の見本園があってザボンやユズ、伊予柑などの柑橘が植えられていました。柑橘が盛んな地とはいえ、少し違和感をおぼえました。
  でもハっとして思いだしたのは、旧松山藩主の久松家には果樹の見本園がありました。松山市の東野に久松家のお茶室があってその敷地にあったのです。今から20年ほど前になりますが、久松家からの希望をうけて果樹園と隣接する県の土地とを交換しています。当時、お殿様と果樹園との取り合わせに不思議な気がしながらも手続きを進めました。

  後日、縁あって「岡田 温」という人の書斎を訪れることがあって、その時にこの人物が明治44年に久松伯爵から依頼を受けて果樹園の整備と運営を行ったこと。そして隅田源三郎という人が園の管理と指導を行っていたことを知りました。岡田氏は私がでた学校の前身になる東京帝国大学農科大学の先輩であり、隅田氏は妻の祖父にあたります。意外な人たちが関わった果樹園でしたが、その整理にあたったのも何かのご縁なのでしょう。ですから松山市が二の丸跡を整備するにあたり、お殿様の邸宅跡に果樹の見本園を復活させたとすればそれはそれで意味のあることだと感心したのです。

 ところで松山藩は江戸期をとおして松平氏が治めてきましたが明治になって久松姓に変えています。変えたというよりも変えさせられたといった方が正しいかもしれません。大名が自らの姓を変えるなど聞いたことがありませんから。ではなぜ変えさせられたのでしょう。それは鳥羽伏見の戦い(慶応4年)で朝敵になってしまい、許しをえるには莫大な献金と藩主の交代、改姓が必要とされたからです。幕府側についた藩でも直ちに詫びを入れて許されているのですが、なぜこんな扱いをうけたのでしょう。

 当時の藩主は津の藤堂藩から養嗣子として迎えた松平定昭でした。激動の幕末(慶応3年)において若くして幕府の老中に抜擢されます。優秀だったので期待されたのでしょう。大政奉還とともに老中は辞職しますが徳川慶喜のそば近くにいたため鳥羽伏見の戦いに巻き込まれ、慶喜が大阪城から脱出したときはまさかの置いてきぼりをくわされています。途方にくれて松山へもどっていたら朝敵にされてしまったのです。そのまま在阪して朝廷に恭順の意を示せば事なきを得たかもしれません。老練な補佐役が居ればずいぶん違っていたでしょう。
  なお、久松の姓は初代藩主のもともとの姓でした。家康とは母親が同じ異父弟だったので松平の姓と葵の紋を授かってそれで通してきましたが、元の姓にもどしたのです。

 期待されて藩主になったものの、能力を発揮する間も無く幕末の動乱を迎えたのは不運でした。養子先の藩を潰しかけて心労がたたったのでしょう。29才の若さで夭折しています。

                     三ノ丸跡から見た二ノ丸邸

               城壁に沿った道は鉤の手に曲がって進んでいます                                          松山城二ノ丸入り口と多聞櫓

            大井戸の遺構 深さ9m 防火用水として構えられた

      二の丸邸の奥を囲う練塀  塀の向こうにある城壁は天守への登り口

                          多聞櫓の内側

  二ノ丸邸の内部 観恒亭と果樹見本園の一部、大井戸の柵が見えます