折々の記 35

 高縄山を訪ねて

 
               高縄山系   中央が高縄山
    目の前の高縄山(たかなわさん)が秋らしい色になってきました。標高は986bながら高縄山系にあります。山系というだけに千b級の峰が連なり山は思ったより深いようです。紅葉には遅いように思いましたが、山頂までは舗装された林道が通っているので出かけてみることにました。
  国道196号線の府中交差点を山の方へ右折するとあとは道なりに緩やかな坂道を上っていきます。 左手にみえる高縄神社を過ぎると右前方に雌甲山(めんごやま)と雄甲山(おんごやま)という二つの山がみえてきます。どちらも標高は200bほど。かつて二つの山頂には鎌倉時代の山城がありました。

         正面奥が高縄山 右手が雌甲山 その左が雄甲山 
  伊予の国の守護だった河野氏の館(やかた)が雌甲山の麓にあり、二つの城は尾根でつながり館を守っていました。河野氏が松山の湯築城に移ったあと、館の跡には善応寺(ぜんおうじ)がおかれ、二つの山城の跡には祠が置かれています。
   坂道は蛇行をくりかえしながら、横を流れる川幅も狭くなっていきます。両側の山が急に迫ってきたと思うと数軒の人家が現われ、道はその先の神社で終わっています。神社は天満神社といって菅原道真を祀っています。
              鳥居の奥に天満神社がある
   神社の前からは高縄山へのぼる林道が伸びています。樹林帯をつづら折りにのぼる林道を進んでいくと、崖から落ちてきた尖った石があちこちに散乱していて落石注意の看板があります。途中、素鵞社(そがのやしろ)や河野川の源流を示す標識を横に見ながら二十分ほど進むと山頂付近の開けた場所につきました。陽あたりがよく、トイレなどの休憩施設もあって車もとめられます。
                素鵞社(そがのやしろ) スサノオノミコトを祀っています

                    祠のあるところが河野川の源流地点です
   車を置いて杉の木立を歩いていくと林の中にひっそりと古刹がありました。高縄寺(たかなわじ)です。寺は河野氏の戦勝祈願の寺として建てられ、境内は高縄山城の跡地に建てられています。
                     大きな杉の並木道があります
 
     頂上への道から外れ、標識に沿って右手の下り坂をいくと高縄寺がみえてきます



     その昔、小千高縄(おちのたかなわ)という豪族が神託を受けてこの地に高縄山城を築きました。小千(のちに越智)氏は大三島神社の大祝であり、強力な水軍を持って勢力を拡大していました。その一族の小千高縄という人物が高縄半島を南下してきてこの地に移り住んだのです。高縄半島や高縄山などの地名はこの人に由来しています。
  河野氏は小千一族の後胤で、麓の河野郷に住んだことから河野姓を名乗りました。伊予の守護職になった河野氏は天正年間に広島の小早川隆景に滅ぼされています。その時に高縄寺は城とともに焼失し、今の寺は江戸中期に真言宗の寺として再建されたものです。境内はきれいに掃除されていますが、本堂や庫裡は閉ざされていて住む人がいないためか風が吹き抜ける境内は物寂しい感じがします。
  道を少し戻って山頂まで登ってみましたが、薄雲がかかって見晴らしはよくありません。関門海峡を抜けてきた風が斎灘(いつきなだ)を渡って山を駆け上るので 雲がかかりやすいのです。帰り道をおり始めると葉の落ちた木々の間からモミジの赤や落葉樹の黄色、ナナカマドの赤い実が山腹を秋色に彩っているのが見えました。
             山腹は秋色に変わっていました

           ナナカマドが赤い実をつけていました
    帰り道は途中で山の奥へ向かう林道があったので、そこを行くことにしました。しばらく行くと河内明神社や円城坊という初めて聞くような名の集落に入りました。炉路
              隠れ里のような小集落におりてきました
    山深い隠れ里のようなところで、陽が差し込んで明るいのに集落全体が静寂につつまれています。家の庭には落ち葉が積もったままで、人の気配が感じられません。まるで徒然草の『来栖野(くるすの)』に来たような感じです。高縄山系の山は深いと聞いていましたが、今も知らない山里があったことに驚きです。
  そこから松山の街中に出るためには、かなりの時間を要しました。やはり高縄山系は思った以上に深い山でした。