遺伝子による老いのプログラム
本棚の整理をしていると奥の方から見慣れぬ本がでてきました。
日高敏隆さんの『人はどうして老いるのか』という文庫本です。
4年ほど前に同氏の本をまとめて発注した際の一冊です。入院騒ぎのどさくさで忘れてしまっていたようです。近頃、体の不具合が多くなり老いを感じていたのでタイムリーな本の登場でした。
日高さんは本のなかで、『老いは人の一生で、あらかじめ遺伝子にプログラムされているということである。人は共通したプログラムに沿って大人になり、そして老いて死んでいく。飛びぬけてこれと異なる人はおらず60歳はいかに若くみせても60歳に変わりはない。ただプログラムは大筋なもので実際の個々の人生はさまざまである。』といっています。
興味深いのは本の中で紹介されているデズモンド・モリスの『年齢の本』でした。年齢に応じて観察されている内容がおもしろく書かれています。
本では0才から始めていますが、老いがテーマの日高さんは40才からとりあげています。
はたして老いは40才からなのでしょうか?
フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは『40才は若者にとっての老人であり、50才は老人にとっての若者である』といっています。
40才は若くもなく年寄りでもない中途半端な年であり、いわば中年への入り口です。まさに老いへのスタートラインにたっているのですが、この年齢になった人で自らが老いの始まりにいることを認める人はほとんどいないでしょう。
多くの人は老いが45才あたりから始まるものと思い込んでいます。
ですから、44才になって鏡を見て髪に白いものを見つけたりすると途端に体のことを気にしはじめて、自分はもう若くは見えないことに気づき始めます。
それでも多くの人は疑似若者を装って年をとることに抵抗を示します。急にテニスやジョギングを始めたりする人を見たことがあるでしょう。
これが48才になれば、中年症候群がほぼ過ぎ去って装い続ける気力をなくします。仕事ではキャリアを積んで業績もあがり、自らの老いを意識するゆとりがないのです。これが50才代前半まで続きます。
女性は平均して51才から更年期の始まりを迎えます。男性も53才には始まります。男性の方は性的能力の減少が緩やかに進むので気づかないことが多いようです。
更年期の始まりは性欲の低下をもたらします。自分の子供が成人して結婚し、次の世代をつくるようになると自分たちはもう子孫をつくる必要がなくなるからです。
そして59才は中年としての最後の喝采を受け、60才からいよいよ老年の春を迎えます。もう昔とは自分の体が違っていることを認めなければならないのですが、多くの人は内心ではまだ若いと思っています。
でも、体の方はついてこないので、そのギャップにとまどう日々を送ります。いろいろと持病が悪化しだすのもこのころからです。
70才になると、まだまだ元気だと思っている人がいる一方で、めっきり老け込んだと感じさせる人もいます。どちらも肉体的にはどう見ても衰えは明らかです。
この年齢になると、生物としての役割は大きく減少しているように見えますが、スイスの心理学者であるユングは次のように言っています。
『人間という種にとって長い命が意味をもたないとしたら、おそらく70才まで生きはしないだろう。人生の午後は、単に人生の朝の哀れな付け足しではなく、それ自身の重要性を持っているはずである。』 と、じつに元気がもらえる言葉です。
75才になると本格的な老衰期に入ります。76才は欲しいものが無くなっていることに気づき、78才は昼が次第に短くなっていくように思う年。80才は人生の回想期で、85才は日々静観の年になります。
そして死を迎えることになるのですが、日高さんは『人間は死を発見してしまった動物』とのべています。
『ほかの動物は死というものがあることを知らないし、死んだという概念はなく、動かなくなってしまったとか、冷たくなってしまったということはわかります。寂しいと思うかもしれないけれど、その程度であって『いずれは自分も死ぬな』などとは絶対に考えないのです。』
つまり死を発見したのは人間が言語を得ることによって生まれた概念の産物であり、この概念を得たばかりに人間は悩むことになったというのです。
でも、死はあらかじめ遺伝的にプログラムされているので、死が近づくと身体が死を迎えるための準備をします。もちろん、交通事故などで不意に無くなる場合は別ですが、自らの意思に関わらず体の方が仕舞をつけようとするのです。
だから予め、あれこれ考えるのは無駄なのです。
私も老いが進んでいつ神様と出会ってもいいという準備はできています。
でも、神様の方で私に合う準備ができているかどうかはわかりません。
ですから、その日が来るまで毎日を楽しみながら過ごしています。
本棚の整理をしていると奥の方から見慣れぬ本がでてきました。
日高敏隆さんの『人はどうして老いるのか』という文庫本です。
4年ほど前に同氏の本をまとめて発注した際の一冊です。入院騒ぎのどさくさで忘れてしまっていたようです。近頃、体の不具合が多くなり老いを感じていたのでタイムリーな本の登場でした。
日高さんは本のなかで、『老いは人の一生で、あらかじめ遺伝子にプログラムされているということである。人は共通したプログラムに沿って大人になり、そして老いて死んでいく。飛びぬけてこれと異なる人はおらず60歳はいかに若くみせても60歳に変わりはない。ただプログラムは大筋なもので実際の個々の人生はさまざまである。』といっています。
興味深いのは本の中で紹介されているデズモンド・モリスの『年齢の本』でした。年齢に応じて観察されている内容がおもしろく書かれています。
本では0才から始めていますが、老いがテーマの日高さんは40才からとりあげています。
はたして老いは40才からなのでしょうか?
フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは『40才は若者にとっての老人であり、50才は老人にとっての若者である』といっています。
40才は若くもなく年寄りでもない中途半端な年であり、いわば中年への入り口です。まさに老いへのスタートラインにたっているのですが、この年齢になった人で自らが老いの始まりにいることを認める人はほとんどいないでしょう。
多くの人は老いが45才あたりから始まるものと思い込んでいます。
ですから、44才になって鏡を見て髪に白いものを見つけたりすると途端に体のことを気にしはじめて、自分はもう若くは見えないことに気づき始めます。
それでも多くの人は疑似若者を装って年をとることに抵抗を示します。急にテニスやジョギングを始めたりする人を見たことがあるでしょう。
これが48才になれば、中年症候群がほぼ過ぎ去って装い続ける気力をなくします。仕事ではキャリアを積んで業績もあがり、自らの老いを意識するゆとりがないのです。これが50才代前半まで続きます。
女性は平均して51才から更年期の始まりを迎えます。男性も53才には始まります。男性の方は性的能力の減少が緩やかに進むので気づかないことが多いようです。
更年期の始まりは性欲の低下をもたらします。自分の子供が成人して結婚し、次の世代をつくるようになると自分たちはもう子孫をつくる必要がなくなるからです。
そして59才は中年としての最後の喝采を受け、60才からいよいよ老年の春を迎えます。もう昔とは自分の体が違っていることを認めなければならないのですが、多くの人は内心ではまだ若いと思っています。
でも、体の方はついてこないので、そのギャップにとまどう日々を送ります。いろいろと持病が悪化しだすのもこのころからです。
70才になると、まだまだ元気だと思っている人がいる一方で、めっきり老け込んだと感じさせる人もいます。どちらも肉体的にはどう見ても衰えは明らかです。
この年齢になると、生物としての役割は大きく減少しているように見えますが、スイスの心理学者であるユングは次のように言っています。
『人間という種にとって長い命が意味をもたないとしたら、おそらく70才まで生きはしないだろう。人生の午後は、単に人生の朝の哀れな付け足しではなく、それ自身の重要性を持っているはずである。』 と、じつに元気がもらえる言葉です。
75才になると本格的な老衰期に入ります。76才は欲しいものが無くなっていることに気づき、78才は昼が次第に短くなっていくように思う年。80才は人生の回想期で、85才は日々静観の年になります。
そして死を迎えることになるのですが、日高さんは『人間は死を発見してしまった動物』とのべています。
『ほかの動物は死というものがあることを知らないし、死んだという概念はなく、動かなくなってしまったとか、冷たくなってしまったということはわかります。寂しいと思うかもしれないけれど、その程度であって『いずれは自分も死ぬな』などとは絶対に考えないのです。』
つまり死を発見したのは人間が言語を得ることによって生まれた概念の産物であり、この概念を得たばかりに人間は悩むことになったというのです。
でも、死はあらかじめ遺伝的にプログラムされているので、死が近づくと身体が死を迎えるための準備をします。もちろん、交通事故などで不意に無くなる場合は別ですが、自らの意思に関わらず体の方が仕舞をつけようとするのです。
だから予め、あれこれ考えるのは無駄なのです。
私も老いが進んでいつ神様と出会ってもいいという準備はできています。
でも、神様の方で私に合う準備ができているかどうかはわかりません。
ですから、その日が来るまで毎日を楽しみながら過ごしています。