折々の記 67

道後温泉の傍にある公園

   最近は平日に出かけるようにしています。どこに行っても空いているのでゆったりと過ごせます。

   昨日は雨あがりに道後公園をたずねました。名前のとおり道後(どうご)温泉のすぐそばにあり、路面電車の駅も道後公園前です。

   室町時代につくられた湯築城の跡が公園になっていて外掘や土塁が残っているほか、内堀には睡蓮(スイレン)の花が水面を埋めていました。内堀にかかる石の橋をわたると石造りの湯釜(ゆがま)が据えてあり、いかにも温泉地らしい光景です。湯釜の横の緩やかな山道を登っていくと、木々の間から見える街並みは喧噪(けんそう)とともに小さくなり、街中にいるのが不思議なくらい落ち着いた空間でした。しばらく登ると視界がひらけて天壇(てんだん)とよばれる広場にでます。風がよく通り、松山市内をほぼ一望することができました。

                          湯築城の内堀にひろがる睡蓮の花

 道後の温泉街が山の谷筋に沿って広がっています。手前の木々のあるあたりが道後公園の入り口です。
  湯築城は、道後の湯が湧きだすところに築かれたのでその名がついています。室町時代に伊予の守護だった河野氏が築いていますが、守護職の城にしては小さい気がします。足利氏に味方して守護になった河野(かわの)氏は、ここから半日ほど北に行った北条(ほうじょう)を拠点とする水軍の頭でした。瀬戸内の水軍を率いる武将だったので城郭を大きく構える思想は持ちえなかったのかもしれません。

   それに松山市内はいまでこそ50万人が住む平野ですが、江戸時代の前までは河川の氾濫がたえずおこる低湿地でした。道後周辺は高縄山系の麓にあって洪水の被害にあいにくいうえ地元の北条にも近かったからこの地を選んだのかもしれません。

  湯築城にくらべると町中にある松山城は立派です。関ヶ原の戦のあと加藤嘉明という大名が低湿地に松山城を築きはじめ、完成までに25年を要しています。その間、交代して領主となった大名たちは河川の改修や水路の整備、川の付け替えなどを行って城下町を洪水から守るために整備してきたのです。戦国大名というのは建築や土木工事を得意とする土地開発業者みたいで、都市のインフラ整備には長けていたのです。

   下まで降りると室町時代の武家屋敷を復元した家がありました。上級武士の住まいのようですが板葺きの質素なつくりです。板敷の居間と土間、台所に納戸の4部屋しかありません。四国の辺境の地だから室町文化の恩恵を受けなかったのかもしれません。ただ歴史上、この城が攻められたことはなく、日々温泉にいるわけで湯治場のようなもの。であれば、この住まいでも十分な気もします。