折々の記 62

聖武天皇のタチバナ


   柑橘(かんきつ)とは、温州みかんやオレンジ,レモン,グレープフルーツなどミカン属を総称した呼び名です。英語のシトラスフルーツに対応する日本語ですが、この柑橘という言葉は江戸時代に井田昌胖(いだ まさなお)という学者が『柑橘伝』(1706年)において初めて使いました。当時、柑(こう)といえば大型のミカン類をさし、橘(たちばな)は小型のミカン類をあらわしていました。そこで二つを合体させてミカン全体を表わそうとしたのです。

    柑(かん)と橘(きつ)のうち橘(たちばな)は九州から東海にかけての沿岸に自生する柑橘の一種で遺伝的には日本固有の種とされています。果実は2〜3aと小さいうえ酸味が強いので食用になりません。初夏に白い花をつけ、花梗(かきょう)は短く、花が立ってみえるので立ち花という名になったようです。5弁の花は文化勲章のデザインにもなっています。

                            橘の実
   デザインを決めるにあたって桜と橘の花に絞られて『桜は武をあらわすのに対して橘は永遠を意味するので文化にふさわしいのではないか』という昭和天皇のお考えで決まったといわれています。『橘が永遠を意味する』とはどういうことなのでしょうか。

   万葉集(759年)には聖武天皇の 『橘は 実さえ 花さえ その葉さえ枝に霜ふれど 益常の樹(いやとこのき)』という御製(和歌)が載っています。 橘の樹は実も花も葉さえも 枝に霜が降ろうと枯れることはなく、常に緑を保っている常世(とこよ)の樹のようだと、いう意味です。たしかに常緑樹である橘は冬でも緑をたたえて変わりのない神代(かみよ)の国の樹のようです。穏やかな世が永遠に続いて欲しいという天皇の願いが橘に込められているようです。

   また当時、たくさん作られていたダイダイ(橙)などは実を結ぶころになっても前年の実がついて残っているうえ、果実の色が黄色から再び緑にもどるので生まれ変わったように見えます。世代が何代にも重なって家の繁栄につながるとして代々(ダイダイ)と呼ばれるようになったのですが、京都府の阿部地方で栽培されていたのでアベタチバナともいわれ橘の一つとされていました。
   つまり橘は冬でも枯れることなく常に緑の葉をつけているうえ世代を越えて多くの実を結ぶ縁起の良い果実であり、変わらず繁栄する象徴として「橘が永遠」を意味するようになったと思われます。

  余談ながら、聖武天皇は橘に思い入れが強かったのか、続日本記(797年)によれば皇族を離れて臣下となる葛木王(かつらぎおう)に橘の姓(かばね)を与えて橘 諸兄(たちばなのもろえ)と名乗らせています。その際、盃に橘の花を浮かべて『橘は菓子(くだもの)の長上(ちょうじょう)にして人の好むところなり』と話されています。果物としてはかなり美味なようですが、本物の橘であればそういう話にはなりません。

    じつは、聖武天皇が即位した翌年(725年)に播磨直弟兄(はりまのあたいおとえ)という人物が唐から柑子の実を持ち帰り、その後栽培に成功して実をつけています。柑子は寒さに強く果実はミカンのような美味しさだったので天皇は大いに喜ばれその功績に対して従五位の下という位を授けています。
   唐から持ち帰った貴重な柑子はそれを栽培する橘守(たちばなもり)に任せていたのでしょうが、天皇自身も御所の南側に植えて花を愛(め)でながら果実を食されていたのでしょう。このならわしが、後世に御所の紫宸殿(ししんでん)でも柑子が植えられて、右近の桜、左近の橘と言われるようになりました。本居宣長の玉勝間(1795年)によれば、『殿上人は南殿の大床にて枝から実を採ってたちばな食いなどしけり』とあり、宮廷の人々も柑子の恩恵にあずかっていたようです。柑子は木ヘンに甘いと書くように、甘い果実だったので聖武天皇は菓子の長上といわれたのでしょう。

   現在でもミカンといえば多くの柑橘をイメージするように、古代においては橘が柑橘類を総称していたのですが、その後柑子などの甘いみかんが広って柑子の柑も柑橘類をさすようになり、分類学上の混同が長く続いたように思います。
 

            柑子の近縁種であるフクレミカン