折々の記 60

伊予松山城


  久しぶりに城山に登りました。城山は松山市内のやや北寄りにあり山頂にお城があるので城山と呼ばれています。昔、松が多く植わっていたので松山とよばれるようになったとか。山頂への登り口は東の東雲口(しののめぐち)や南の黒門口(くろもんぐち)と県庁裏、西の古町口(こまちぐち)の四つがあります。東雲口には別にロープウェイとリフトもあります。標高は132mなのでゆっくり歩いても30分ほどで山頂にのぼれます。

  城の総構えは山の麓に土塁と堀で囲まれた三ノ丸があり、その北側には石垣で築かれ二ノ丸があります。山頂には三重三層の天守や小天守、各種櫓(やぐら)でできた本丸曲輪があり、麓からみあげる城郭は山の緑に映えて優美です。安土桃山文化の影響を受けているためかもしれません。三ノ丸は堀之内とも呼ばれ、いまは広い芝生の公園になっています。
                 二ノ丸邸 (三ノ丸跡の北側)
                                    城山の天守閣 
  黒門口からのぼり始めると街の喧噪(けんそう)はすぐに消え、落ち葉を踏みしめる足音とヒヨドリの鋭い鳴き声だけが聞こえます。鉤(かぎ)の手に曲がる城壁に沿っていくと槻門(けやきもん)跡にでます。正面にみえる建物が二の丸邸です。右にいくと二ノ丸御門があり、そこを入れば庭園が広がっています。左へいくと二ノ丸の北門があり、そこから急な山道に変わります。

   昔の人は背も低く足も短かったはずなのに、石段の高低差が大きくのぼるのに苦労します。杖をつきながら休み休み登っていくとやがて大手門につき天守がみえました。
  おそらく殿様をはじめ藩士の多くは麓の二ノ丸や三ノ丸にいて、本丸に登ってくることは稀だったはず。徳川三百年の間、天守としての役割はそれが見える範囲を『お城下』といったシンボル的なものだったのでしょう。

  天守から西にみえる忽那(くつな)諸島は九州から京・大阪へいくための風待ち港があり、山口から上洛する際の航路上にあります。幕府は当初、薩摩や長州が海路で大阪や江戸へ攻めのぼることを防ぐため、この地に親藩の松平家を置きました。その心配は幕末になって的中し、薩長(さっちょう)の船が京・大阪との間を頻繁に往来したうえ討幕の兵を満載した船舶が沖合を通っていきました。

  西日本の大名のうちで幕府側についたのは松山藩だけでしょう。鳥羽伏見の戦いでやぶれて朝敵になり城は土佐藩兵に接収されました。土佐藩は松山藩と良好な関係にあったので松山を守るために土佐藩が急ぎ城を押さえたといいます。もし長州征伐で恨みをかった長州藩に攻められていたら城はアームストロング砲で砕かれていたでしょう。正岡子規も、『春や昔 十五万石の 城下かな』どと詠むことはできなかったはず。

  朝廷に松山藩が許されて土佐藩兵がひきあげるとき、総督の深尾左馬之助は家老の奥平弾正に『天守閣は松山の象徴である。誇りとして大事にしなされよ。』と語りかけています。
  松山がその後も落ちつきのある地方都市でありつづけたのは、松山城とその城下町が残ったことによるのかもしれません。

                    南堀端(お堀の南側  左手には土塁が続いています)

               西堀端(お堀の西側 右手には土塁が続きます)

                   三ノ丸跡の堀之内公園(西側)  

                   黒門口の入り口 
                                二ノ丸邸の御門
                      槻門跡を左手に進む

                     二ノ丸邸の北門

                      天守までの坂道

                    ようやく天守曲輪の入り口につきました                       
                          大手門跡(向こうに本丸がみえます)