折々の記 9

 虚子の父

     少し長めに散歩をすると高浜虚子の句碑の前を通る。俳句に縁はないものの虚子の名前くらいは知っている。 正岡子規の高弟であり、夏目漱石の友人でもある。
   碑は旧北条市の西ノ方というところにあり、かつての国道196号線を柳原から少し北に歩いた河野橋のたもとにある。お堂があってその前には小さな広場があり、句碑は松の木のそばに建てられている。訪れる人がいるのかベンチも置かれている。

   もともとこの一帯は松林が続く浜辺であり、近くには虚子の家があった。冬の季節風で松林が不気味な音をたてるので子供の虚子はたいそう怖がったらしい。 句碑建設の相談を受けたときに虚子がここを選んだも幼い頃の思い出と重なるものがあったのだろう。 
  その虚子の父親は池内信夫という元松山藩の藩士だった。能や武芸に秀でて藩の右筆をつとめていたが、明治維新で藩が消えると西ノ方に家と農地を求めてさっさと移っている。 武士から農民へ転身することにこだわりがなく、何ともけれんみのない生き方である。この人物が司馬遼太郎の小説、坂の上の雲にでてくる。
   池内のおいさんこと池内信夫が久しぶりに城下に出てきて偶然あったのが、秋山好古(よしふる)という青年だった。秋山家とは昔から親戚のように付き合っている。
  『もうお知りかな?』
   『… ? 』
   『ああ、まだお知りんか、大阪に師範学校というものが出来たぞなもし。 これはあんた、無料(ただ)の学校ぞな』 
   家が貧しくて風呂屋の釜たきをしていた好古が、この一言で新たな道を進みはじめることになる。

   好古や弟の真之(さねゆき)がのちに日露戦争において、世界最強のコサック騎兵やバルチック艦隊を撃破し帝国ロシアに勝利したのも、このおいさんの一言から始まったと言っていいだろう。  あのとき池内のおいさんが好古と出会っていなかったら、明治の日本がどうなっていたかわからない。  
    伊予人は質素でまじめながら、ある種ののどやかさをもっており、深刻さや一途さとは縁がない。 池内のおいさんのような人物が、ごくふつうに市井で暮らしている。愛媛にはそうしたけれんみのない生き方が似合っているし、県民性に色がないと言われても、それはそれで愛媛の良さに違いない。