折々の記 26

 夏みかん考

   海岸を歩いていると波打ち際でみかんが波間にゆれています。おそらく近くの島から流れてきたのでしょう。皮は厚く、オレンジがかった黄色なので晩柑類と思われます。波が打ち寄せるたびに砂浜へ打ち上げられそうになっています。
   夏みかんが日本に流れ着いたのは江戸時代中期の安永年間のころのこと。山口県にある青海島の大日比海岸に漂着しています。近くに住む西本ちょうという娘が拾って帰えり、種を播き生えてきたのが本邦初の夏みかんです。

                     夏みかんの果実     
   はるばる中国から海流にのってやってきたのか、それとも近くを通る交易船から落ちたものかはわかりません。当時の交易船は航海中にビタミンを補給するため東南アジアで柑橘を積み込むことが多かったようです。
 
  おちょうが育てた正体不明の樹はその後、城下町の萩にも伝わりますが、実が大きいうえに皮がごついので化け物とよばれ、酸味が強すぎるため食酢の代用に使われただけでした。

  それが或る夏の日に樹に残っていた果実(夏みかん)を食べた人がいて意外に美味しかったので作る人が増えていったようです。試しに食べたのは児玉惣兵衛の息子の正介だったので『児玉みかん』の名で広まりました。
  その後、形が橙(だいだい)に似ていることもあって夏橙(なつだいだい)といわれるようになり、夏に食べられるみかんなので夏みかんの名になりました。 

   この夏みかん、明治維新で藩がなくなり武士が困窮した際に、山口では士族に栽培をすすめています。士族たちが収入を得る商品作物として期待されたのです。
  幸いそれまで田畑で作る作物を制限していた『田畑令』が廃止されたので、自由にものが作れるようになり夏みかんにとっては幸いでした。いまも萩の武家屋敷には夏みかんが植わっています。

   ところで、子供のころに食べた夏みかんは強烈に酸っぱかった記憶があります。酸味を和らげるために塩をつけて食べたりしましたが、少し苦みもあって出されるたびに閉口したものです。
   それに昭和の半ばを過ぎると、スイカやメロンといった甘い果実が登場して酸味の強い夏みかんは敬遠されるようになりました。
  ちょうどそのころに夏みかんの枝変わりがうまれています。酸味が少ない甘夏(あまなつ)とよばれる現在の夏みかんです。甘味が増えたのではなく、酸の抜けが早くなって酸と糖のバランスが良くなって食べやすくなったのです。

   学生の頃に山へ登るときは、甘夏をリュックに入れてもって行きました。疲れた時に口に入れるとなんとも爽やかな味がして、疲労が吹き飛んだものです。
  体を動かす仕事が多かった時代には、酸味のある甘夏も爽やかな味として好まれましたが、現在のように、空調のきいた部屋でパソコンに向かって仕事している現代人には、甘夏の良さは分からないかもしれません。