折々の記 87 性格と血液型
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蚕と絹のあれこれ 49 養蚕の言葉 その7
折々の記 89 面 接
平成の十年くらいまで、養蚕農家や農協職員に蚕の飼育技術を指導するための蚕業改良指導員という資格がありました。
県に蚕業職で採用されるとこの資格をとる必要があったので採用試験の二次面接が終わるとすぐにこの資格試験がありました。国に代わって県が試験をしていたのです。
試験は筆記試験だけで基礎的な知識を問うものが多かったので、ほぼ全問正解だったと思います。それよりも問題なのは、その前におこなわれた採用面接でした。
『あなたは県外の出身ですが、ずっとこの県で働くつもりはありますか?』と問われ、『はい、是非長く働きたいと思います』と答えると
『そうは言っても、いずれ大阪に帰りたいと思うのではありませんか?』と似たような質問が繰り返されるので
『本人が長く働きたいと言っているのです。私のこの言葉を信用していただくしかありません。』とイラっとして言ってしまいました。
そしてしまった!と思いました。
じつは半年前に別の県を受験して一次試験は合格したのですが、二次の面接でやらかしていたのです。
面接官の声が小さいうえに訛りが強かったのでうまく聞き取れず、何度も聞き直したら怒りだしたのです。
案の定、合格通知はいくら待っても来ないうえ、担当の教授からは「面接で落ちるとは聞いたことがないですねぇ」と半ばあきれ顔で言われました。それなのに、またやらかしてしまいました。
でも幸いなことに、この県の面接官は心が広かったようで採用されて資格もとれました。
その後、二十年ほどは資格をいかせる職場につくことがなく気がつけば世の中かわって資格に関する法律が廃止されたのです。
でも、その資格を農業改良普及員資格に読みかえができることになり、自動的に農業改良普及員の有資格者になったのです。
それでもひきつづき行政での仕事が続いたので普及現場に携わったのは二年だけ。それも長として赴任したので、ほとんど名ばかりの有資格者で終わりました。
ところが定年退職したらすぐに県から連絡があり、国の普及指導員資格試験の専門委員に推薦したいというのです。
どうやら県は国の要請をうけて委員の潜在候補者に私の名をあげていたようです。国で検討した結果、本人の了承をとって推薦書をあげるようにと言われたらしいのです。
長年お世話になった国の人たちの手前もあって無下に断るわけにもいかず、少しはお役に立てるかもしれないと思いなおして引き受けることにしました。
名ばかりの有資格者にとって無謀といえば無謀な話しでした。
専門委員の役割は、はじめに受験者の業績や論文が送られてくるのでそれを読みこんで採点します。もちろん委員による審査のバラつきを補正するために模擬試験もついています。
その後、国の出先機関に出向いて面接試験を行い、合否の予備判定を行うのです。
面接は委員六人が二班に分かれて分担しますが、各班には全国区の試験委員が一人入り、残り二人は管区内の県から選ばれた専門委員が加わりました。
私はいつもタイムキーパーの役をうけもち、最後に質問をすることで受験者の持ち時間の調整をしていました。人数が多いと二日にわたって行うこともあり、年ごとに心身の疲労が大きくなるように思いました。
そうした中でも、どの委員も温和な紳士ばかりで真剣に受験者の考えや取り組みを理解しようと努めていました。
でも受験者のなかには、すこし尖った個性の持ち主がいるもので、かつての自分を思い出して笑ってしまいました。そして大きな声ではっきりと、しかも同じような質問を繰りかえさないように心がけたのです。
若者はどんなに破天荒でもいずれ成長して有為な人材になる
ことから暖かく見守りたい。そんな気持ちで七年ほど関わりましたが、定年後の仕事に区切りがついたので委員の方も潮時と思って引くことにしました。
おかげで、ようやく名ばかりの有資格者から解放されたのです。
それにこの県で四十年以上働くことができたので、面接の時に私の言葉を信じて採ってくれた人たちとの約束が果たせたような気がしています。