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折々の記 99 みかん王国から柑橘王国へ
最近、『柑橘王国』という言葉をよく耳にします。
これには、柑橘類の生産が国内で最も多いという少し自慢のような誇りのようなニュアンスを含み、もっぱら県の紹介や柑橘類の販売PRなどに使われています。
たしかに温州みかんを含む柑橘全体の生産量は全国で最も多いうえ、その種類の豊富さは王国と呼ぶにふさわしいかもしれません。
なかでも温州みかんは昭和43年から長らく全国一の生産量を誇って、自らを『みかん王国』と胸を張っていました。
でも、平成16年に和歌山県に首位の座を明け渡してからはずっとその後塵を拝しています。
温州みかんが二番手になったのは、全国的にみかんの生産が過剰になって価格が暴落したことに起因しています。
昭和43年と47年の二度のみかん価格の暴落にあって農家は将来に不安を抱くようになりました。
県では熊本や和歌山、静岡といったミカンの主産県と協調して、生産量を抑えるために樹の伐採を進めました。
とりわけ、みかんの品質が低かった地域では価格の下落が激しかったのでその衝撃は大きく、急ぎ他の柑橘に切りかえようと動きになりました。
世界中からいろいろな柑橘をあつめて試験栽培をし、松山市を中心とした内陸部では温州みかんを伊予柑に切り替えたのです。
伊予柑は年末に収穫して貯蔵しておき、糖と酸のバランスが良くなる二月から三月にかけて出荷します。このほかネーブルや河内晩柑などに転換した産地もありました。
つまり、果樹農家の経営を安定させるために温州みかんから柑橘類への転換を進めた結果、みかんの生産量が落ちて二番手になったのです。
その後、多くの魅力的な柑橘がうまれたので初冬から晩春まで、果汁が多くて甘い品種が旬をつないで販売できるようになりました。
このため農協においても、いつまでも二番手の温州みかんをもって『みかん王国』というよりも、多種多様な柑橘を売り出すために『柑橘王国』の方が良いと考え始めていたのです。
そんなときです。
農業分野のある課長に就いて、はじめての県議会の政調部会のことでした。
最初に県内の果樹生産の状況を聞かれたので、何気なく『柑橘王国』という言葉を使って話していたところ、急に議員たちがざわめき始めました。
そして『今の発言はどういうことか。許しがたい』といきなり吊るし上げを喰らったのです。
『いつからみかん王国でなくなったのか?』とか『誰が柑橘王国と決めたのか?』 『みかん農家の気持ちを踏みにじる発言!』 『柑橘といっても世間では通用しない! 』と言ったたぐいです。
これが自民党をはじめ公明党や民主党、共産党までが次々と批判するので困りました。
前任の課長からの引き継ぎでは『みかん王国から柑橘王国になったから』と言われ、安心して使っただけにおおいに驚きました。
その場でどのように答弁したのか覚えていませんが、一時間半のほとんどをこの話題に費やして、最後は『納得できない!』と言われて時間切れ。
理事者の席には商工や農林などの課長たちがズラッと並んでいますが、質問通告のないぶっつけ本番の質疑なのでみな緊張しています。
でも、自分の所管以外の答弁なら指名される心配がないので気楽なものです。
あとで彼らから『質疑の時間がなくなって助かった』とお礼を言われたのには苦笑するしかありませんでした。
これで済んだと安心していたら、数か月後に本会議での代表質問に取り上げられ、とうとう知事の答弁によって『柑橘王国』という呼称へ変更することになりました。
知事をはじめ三役が出席する事前の答弁審査では、議会で大きな問題になっているだけに慎重論もでましたが、果樹行政の方向性を説いて理解を求めました。
もちろん業界団体とは事前に話し合って意見の一致をみています。
そして、これによって『柑橘王国』への名称変更が決まったわけですが、この一件を通して思ったのは、人の気持ちの問題は簡単には変えらないということです。
全国一の生産で『みかん王国』という名を誇りにしてきた人たちにとって、その看板を下ろすことは忍びないのでしょう。
一方、新たな高級柑橘の産地へ脱皮するには昔の栄光にすがることなく新たな姿を打ち出すことが肝要です。
そのためには誰かが口火をきらないと、いつまでもたっても変わりません。
私の場合は意図せず口火を切ることになってしまいましたが、たとえ理屈で優っていても感情に疎ければ物事は前に進まないこともよくわかりました。
いま、いろいろな柑橘が店頭をかざり柑橘王国が違和感なく使われているのを見ると、新まいの課長が受けた洗礼を思い出しながらも、妙にホットする思いです。