繭人形シリーズ 午年です 
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折々の記 107 病室のつぶやき(点滴) 
蚕と絹のあれこれ50 伊豫蚕業沿革史その1

蚕と絹のあれこれ51 伊豫蚕業沿革史その2
〇明治六年
二月二十日に神山県と石鉄県を併合して愛媛県となり松山に県庁が置かれて伊豫全域が初めて一つの政庁のもとに統治されることになりました。
当初、県令は不在のため参事の江木康直氏(山口県出身)が長官となり、権参事の大久保親彦氏(茨城県出身)がその次官に任じられましたが、翌年には両者とも他へ転任してしまいます。
そのため宇和島に出張所を置いて本県大属の松倉 恂 氏を長にして南予地方一帯を管轄させました。
松倉氏は宇和島および吉田藩の士族のうち主だった者を集めて養蚕・製糸が士族授産に適していることを熱心に説いています。
松倉氏の郷里である福島県二本松は昔から蚕業の有名な地域であるだけに、氏の説く内容は懇切丁寧で現実味や説得力がありました。
両藩の士族たちは氏の言葉を信じて率先奮起して同志を糾合し、蚕業を始めるために官地(八幡浜村字中間東禅寺上地山林)を借用して桑を植え、或いは野桑を摘採して育蚕を試み子女に勧めて製糸の技術を修めるなど、士族の間において蚕業に取り組む者が出てきました。
なお、桑苗は松倉氏の斡旋によって江州産の細江(品種名)の類を移入しています。
同地がのちに県下第一の養蚕地になったのは、それまで伊達家のもとで発展してきた素地に加え、松倉氏が熱心に蚕桑の奨励をおこなって士族たちがそれを信じて取り組んだおかげだと土地の古老たちは口をそろえて言います。
松倉氏は福島県二本松の藩士で代々丹羽家に仕えた家柄で、維新前に藩論が佐幕に傾くと勤王の大義をとなえて脱藩し、天下の志士と交わるなかで江木康直氏とも交誼をかわしています。
その江木氏が本県の参事なると招かれて要職についたのです。後年、県を去ってのちは茨城県に移り、同地で亡くなったといいます。
この年、大洲藩士の福井茂平氏は三月に長女のミチ氏と小川ヌイ氏を連れて京都府下丹波国何鹿郡(いかるがぐん)綾部安場村の加藤小兵衛を訪ね、養蚕や七粒付けの手繰繰糸の技術を学び、その後も東光院に仮寓して自炊しながらなお練習を続けて九月に帰郷しています。
そして蚕糸業を興すために菊池規訓氏、矢野速太氏、倉辻明教氏、大橋 有氏、池戸満佐治氏、小川源兵衛氏らによびかけて同志を募りました。
同時に加藤家と交渉して所有する簗瀬山字大谷の地を借り受けると、同志らと鋤鍬をもって開拓して桑を植えるなどして養蚕の準備を始めています。
福井氏は文政二年に喜多郡柳沢村に生まれています。性格は剛毅にして弁がたち事理明晰にして情に篤く、かつ算数に詳しくて理財の才があり、加藤家に仕えて藩米穀の領収に携わっていました。
明治元年の戊申の役では奥羽追討軍として従軍し、途中で東北地方における蚕糸業を見て大いに感服しています。
明治五年藩兵が解かれ藩の制度が新しく変わって七百年来の士族が廃滅してしまったので、これからの自活の道は蚕糸業しかないと考えました。
そして翌七年四月に大洲町大字柚木の自宅で蚕を飼い座繰製糸業を興すとともに地方の有志を勧誘してその技術の伝習につとめています。
大橋 有氏も妻女に伝習を受けさせているほか、新谷の松村正直氏もやって来てその教えを乞うています。
氏が同志に呼びかけて簗瀬(やなせ)山麓に桑苗を植えるなどして栽桑、養蚕、製糸業を広めたのはこの地における養蚕・製糸業の先駆けとなりました。
その後、明治十年には県の勧誘に応じて大洲地方の子女七名を募り、備中笠岡に遣って機械製糸の技を修めさせ、その費用の多くは氏自らが負担しています。
このように氏は進歩的資質に富んで熱心に蚕糸業に取り組み、少しずつ事業は進んでいきましたが、その後県から柞蚕奨励の話がしきりにあったため同志の多くは離れていきました。
氏は独りその蚕糸業の継続を図かろうと努力しましたが、資力も尽きて事志し半ばで廃止せざるを得ませんでした。その刻苦はまことに察すべきものがあります。
明治二十九年七月二十三日に亡くなり行年七十八才でした。真宗西方寺での葬儀のあと大洲町山根墓地に埋葬されています。
氏の長女であるミチ子刀自は大洲町字志保町にあって今年五十九才(大正四年)。今なお健在で訪問した際には和歌一首とともに往時を語ってくれました。『簗瀬山ふもとに遣る桑陰に 植えにし父の面影ぞ立つ』
〇明治七年
江本参事および大久保権参事が去り十一月二十四日に権令の岩村高俊氏が佐賀県から転任して就任します。すると同時に典事職の赤川〇助氏に声をかけて七等出仕とし、のちに書記官に任じて次官としています。
この年大洲においては前年修業した福井氏が春期に養蚕製糸の業を始め、地方の有志の勧誘につとめて新谷藩士の松村正直氏らも参加して開盛社と称する蚕業団体を組織し、養蚕と座繰製糸業を興したため世間の主立った人たちの注意をひいています。
松村正直氏は弘化四年に喜多郡新谷に生まれ、文久三年に兄の正義の跡を継いで新谷藩主の加藤奏令子に仕えています。
幼いころから才知に優れ長ずるにおよんで文学に志し、香渡晋氏に就いて詩文を善くし併せて武芸に励み、とくに鎗術はその奥義を極めるなど文武両道の人物でした。
性は謹厳にして藩主の供方をつとめ次いで藩校の句読師、司経、司文庫、近侍、郡宰、公用人、民生主事および大属を歴任しています。
廃藩置県後は宇和島県属に任じられその後、官を辞して郷里に起臥し地域の世話役をつとめています。
氏は明治元年に天皇の東幸にあたり藩主の供をし、途中、相州大磯において朝廷諸藩の武技を閲せられるにあたり抜擢の栄を受けて金五十疋(現貨で十二銭五厘相当)を賜わっています。
氏はこれを栄誉として別に貯え利殖して日露戦役に際しては十二円五十九銭五厘になった内から元の賜金を残してすべて軍費として献上しています。
理財には緻密であっても義にはあつい人物でした。
氏は廃藩置県に際して士族授産が急務であると考え明治七年に隣の大洲地方で始まった蚕糸業に利があると聞くと福井氏を訪ねてその方法を学び、同志を糾合して開成社と称する会社を興してその社長になっています。
できた製品は同地の呉服商である松田角太郎氏に託して京都につないで販売し、寝食を忘れて養蚕、製糸業の経営に取り組みました。
ただ養蚕の凶作や糸価格の低迷によって経営には難儀したうえ、事業へ誹謗中傷を行う保守固陋の輩が絶えませんでした。
当時は交通の便もなく資金融資の機関もない状況で大正の今日と比べければまことに昔日の感があります。そのような状況の下で氏の事業は結果的に成功しなかったものの新進の不慣れな産業に率先して取り組んだ功績はじつに偉大でした。
そして奮闘のすえようやく曙光がみえようかというときに県の柞蚕事業の奨励(明治十四年)に逢い、その途に変わる者が増えた結果、明治十八年に会社はやむをえず解散に至っています。
その後は化石庵と号して詩文を楽しんで余生を送り、明治四十四年八月三十日に亡くなっています。行年六十五才でした。
墓碑は神南山麓にある日蓮宗法眼寺の境内にある藩主加藤公廟の南隣の一段高いところに北面してあり、西面には紅葉山を控え前面には新谷市街を一望できるところにあります。
墓碑を訪ねた際、雨露にさらされた折り紙があったので開けてみると一首の和歌が書かれていました。「染めだす色や錦の紅葉山 散りにし後は訪ふ人ぞなし」詠み人知らず。
世に人情の軽佻浮薄なのはこの和歌のとおりです。人々の多くが成功者を尊崇することを咎めるものではありませんが、度をすぎて追従賛美に陥るのはとても見苦しいものです。それよりも機運に先立って多くの困難を嘗めその目的を遂げられずに中途で散ってしまった先輩諸氏の心の底を推しはかり、そこから多くの教訓を得ることが大事です。それを思いながら不覚にも涙が出て山を下りました。
この年、県庁内の庶務課に農業主任を置き、専ら農事の改良をまかせています。
主任者は長崎県南高来郡島原の人で渡邊政恒氏といい東京都布津田農学社の出身で県下の各市町村に津田式媒助縄を配布するとともに農事三事と題する農書を頒布して専ら西洋農事を提唱しています。
注) 媒助縄は農学者の津田仙がオーストリアの万博に出席したさいにオランダ人から伝授された稲の受粉方法。長い縄に綿羊の毛をしめ縄のようにつるしその先にハチミツをつけて縄の端を二人で引いて持ち、稲の穂が開花したらそのうえを撫でて受粉を助ける方法。
ただし稲は風媒花で自家受粉する植物であり、のちに全国の試験場で試験して媒助縄による受粉の効果はなしとされた。
