立ち止まってみてごらん   

 

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      蚕と絹のあれこれ 48   養蚕の言葉  その6

  蚕ほど遺伝や生理、生命科学の研究がすすんだ昆虫はほかにありません。しかし学生の時は、必須科目とされる遺伝や発生学の勉強がとても苦手でした。性に合わないというか、頭に入ってこないのです。

  ただ、覚えているのは『蚕は雑種強勢1、すなわち交雑された雑種第一代は両親よりも優れることを利用した最初の生物である』という遺伝学の冒頭の講義でした。
  だとすると、交雑を繰り返せばどんどんと優れたものになるのかと気になりましたが、二回目以降の講義に出なかったのでわからずじまいでした。

  その答えは就職してから蚕種会社を訪ねてわかりました。
  春に飼育する蚕の品種に『春嶺鐘月(しゅんれいしょうげつ)』という品種があります。これは原種の『春』と『嶺』を交配してできた『春嶺』と、同じく原種の『鐘』と『月』を交配してできた『鐘月』を掛け合わせたものです。
  交雑によってできた二代目同士の交配なので4つの原種の血が入っているため四元交雑といわれ、普通品種のほとんどは四元交雑によってできています。

  蚕種会社の社長によると
  『繭のすぐれた形質は交雑によってできた雑種の一代目に顕著にあらわれるけれど、交雑を繰りかえすたびに遺伝的な変異の幅が大きくなってよくありません。だからと言って原種同士の二元交雑なら原種のメスが産む卵はわずかです。これが四元交雑になると交雑種が産むために卵の量は飛躍的に増えます。これも雑種強勢の効果です。』

  蚕種製造では蛾の産卵量が経営を左右するため、必然的に四元交雑を使うことになっているのです。ちなみに『春』は日本種で『嶺』は欧州種、『鐘』と『月』は中国種のそれぞれ原種です。

1 雑種強勢 ;  遠縁の品種や系統を交雑してえられる雑種第一代はいずれの両親よ
   りも生育や繁殖力などさまざまな形質において優れるようになります。1900年代
   の初頭に外山亀太郎博士がメンデルの法則や雑種強勢について、動物ではじめ
    て蚕を使って証明し、これを契機に蚕の育種が飛躍的に進歩しました。

  ところで、蚕の卵は種(たね)とか蚕種とよばれます。植物の種子のようですが、郵便局では種子と同様に扱われて封書による郵送が可能です。
  蚕の成虫は蚕蛾(さんが)とよばれ、蛹になってから10日ほどで羽化します。羽化は日が昇ってから3時間くらいの間で行われるので、そのとき残ったものは翌朝にでてきます。
  蚕種会社ではあらかじめ切繭2して蛹を品種ごと雌雄ごとに分けておき、交配する組み合わせごとに保護しています。蛹はお腹がポッテリと丸みのあるのがメスで、少し細身なのがオスです。慣れてくれば見ただけでわかります。

  通常はオスの方が早く羽化してメスを待っています。メスが羽化するとただちにフェロモン3を放つのでオスは触覚で匂いを感知すると近づいていって交尾します。
  放っておくといつまでも交尾を続けるので3時間ほどたてば離します。オスは鍵状になった性器でメスとつながっているので、メスのお腹を軽く押さえながらオスをねじるようにして外します。これが読んで字のごとく割愛(かつあい)です。

  メスには軽く振動を与えたのちに産卵台紙4へ移動させると、夕方から翌朝にかけて500〜700粒の卵を産んでいきます。産みたての卵は淡黄色ですが、受精していれば三日ほどで藤色にかわります。これを黒種5(くろだね)といいます。
  卵は表面に粘着物質がついているので産卵台紙に引っついています。なお、産卵を終えたメスは集蛾6(しゅうが)して微粒子病(びりゅうしびょう)の検査を行います。

2  切繭 ; 繭の上部をカッターで切り開いて中の蛹を取り出すことです。
3 フェロモン ; メス蛾の誘因腺から分泌される生殖ホルモンのことです。オス蛾はフ
   ェロモンをいちはやく感知するために大きな触覚をもっています。
4 産卵台紙 ; 蚕蛾に産卵させるための紙のこと。塩酸や水の浸漬に耐えうる紙質で
   す。産卵台紙一枚に2万粒の卵が産みつけられていて、蚕卵紙とか種紙ともい
   われます。
5 黒種 ; 次の年まで孵化しない越年卵とか休眠卵のことをさしています。幼虫の食
   道下神経節から出される休眠ホルモンによって休眠するかどうかが決まります。
   ホルモンの分泌は主に遺伝的に決まっていて、休眠ホルモンは卵を包む被膜細
   胞に作用して卵の越年性を決定づけています。
6 集蛾 ; 顕微鏡で微粒子病に感染しているか否かの検査をするため、産卵をおえ
   たメス蛾をあつめることです。幕末にヨーロッパの養蚕は微粒子病のために激
   減します。各国は無病の蚕種を求めて日本へやってきて開国と貿易を迫りまし
   た。明治維新は蚕の微粒子病によって起こったのです。

  子供のころに祖母の家から繭をもらってきたことがありました。箱に入れてタンスの上に置いておいたら、ある晩のこと、ブンブンと音がしだして怖くなり、布団をかぶって寝てしまいました。ひと月ほどたって恐る恐る箱をあけると死んだ蛾と紫色の卵のようなものがびっしりとついていて、今度はこれが孵ったらどうしようかと悩んだことを覚えています。

  通常、卵は常温で置いておいても翌年の春まで孵化することはありません。一年に一度だけ春になると卵から孵り、一世代をおくると翌年の春まで卵の状態で過ごします。
  こうした世代のサイクルを化性7といって、一年で一世代のものは一化性です。二世代を送るのは二化性です。第一世代が産んだ卵は藤色にならないので生種8とよばれ、二週間ほどで孵化して第二世代が始まります。二世代目が産んだ卵は翌年の春まで孵化しません。

  卵は産まれると同時に細胞分裂が始まって胚子がつくられるようになり、一定のステージにまで育つと発育を停止して休眠9に入ります。冬になって低温に遭遇すると休眠からめざめ、じっと春がくるのを待っています。そして気温が上がり始めると胚子は発育を再開し、幼虫の姿にまで生育して孵化します。

  こうした生態がわかれば年間を通していつでも蚕を孵化させることが可能です。
  たとえば、産まれた卵を25℃で保護し、8月から徐々に温度を下げて11月には2.5℃まで落とします。そこからは長期の冷蔵に入り、飼育の時期がくれば催青10といって徐々に温度をあげて卵に『春が来た!』と思わせるのです。そして掃き立て前日には青み卵11になるように調節するのです。
  昔は冷蔵庫がなかったので風穴といって山の中に冷風が噴き出す穴があり、そこに室を構えて蚕種を冷蔵していました。
  このほかに塩酸の溶液を使って卵が休眠に入るのを阻止しながら孵化させる即浸法12(そくしんほう)や、軽く休眠に入らせてから目覚めさせる冷浸法13(れいしんほう)といった方法もあり、生理を解明したうえで人工的な孵化技術が組み立てられています。

  実際に現場で使われている技術から、そのもとになった知見を学び直すと苦手な分野でも案外、理解できることがあります。私にとって遺伝学や発生学はそうした類のものでした。

7 化性 ; 年間に1世代を過ごすものは1化性、2世代を過ごすものは2化性、3世代以
    上のものは多化性といいます。
8 生種 ; 不越年卵や非休眠卵のことです。産卵後休眠せずに胚の発生を続けて産
   下後10日ほどで幼虫が孵化してきます。卵には黒種のように着色はしません。
9 休眠 ; 蚕の卵は産まれてから30時間後に胚の生育がとまり休眠に入ります。休
     眠した卵は一定の低温で目をさまし、温度が上がると胚の発育を再開します
10催青 ; 冷蔵貯蔵された卵を温湿度や光などが調節できる部屋に移して胚の発育
   を促進させ孵化させることです。
11青み卵 ; 催青卵ともいわれ、孵化1〜2日前の胚の発育が最終段階にある状態を
   さしています。
12即浸法 ; 産まれた越冬卵を30日以内に孵化させる場合に用いられる処理のこと
   です。 産下後20時間目に46℃の塩酸に5分浸酸してのち水洗し乾燥させて
   催青させます。
13冷浸法 ; 産まれた越冬卵を40日から100日後に孵化させる場合に行う処理の
   ことです。産下後48時間目に5℃におき、そのまま40〜60日間冷蔵したのち、
   48℃の塩酸に7分程度浸酸させてのち水洗し、乾燥後、催青させます。