蚕と絹のあれこれ 2

蚕はどこからやってきたのか

   日本書紀には蚕がオオゲツヒメという女神の頭から生まれたと書かれています。稲(いね)は目から、粟(あわ)は耳から、小豆(あずき)は鼻からというように、体から食べ物が産みだされているのです。こうした食物起源のお話は日本以外でもみられます。いずれも共通するのは、新たな食べ物が他所からやってきたことを示唆していることです。
   であれば蚕はいつごろ、どこから日本へやって来たのでしょう?
絹織物が出土した遺跡としては佐賀県の吉野ケ里(よしのがり)遺跡が知られています。色鮮やかな多彩な色で織られた錦織りの絹布がみつかり、西暦 100 〜 200 年頃のものとみられています。また 中国の魏志倭人伝には西暦243 年に邪馬台国の女王・台与(とよ)が中国・魏(ぎ)の皇帝に倭錦(わにしき)や絳(あかかとり)などの絹織物を贈った事が記録されています。つまり 西暦2 世紀から 3 世紀の日本には養蚕や織物に関するある程度の技術が定着していたのです。
   さらに紀元前170 年頃とみられる福岡県の有田遺跡からは我が国最古の絹の布片が出土しています。その織りの粗さから考えて国産の絹だと考えられています。ですから、少なくとも紀元前2世紀頃には日本に養蚕が伝わっていたとみてよいでしょう。
   布目順郎氏は遺跡から出土した絹の繊維を調べたところ我が国の最初の蚕品種は中国の揚子江流域(華中)から入ってきたものとしています。その後、朝鮮半島の楽浪郡の蚕品種が入ってきて、その後は両者が混在する状態が続いたといいます。つまり、はじめは華中の四眠蚕の系統が伝来し、のちに朝鮮半島から細い糸を作る三眠蚕の系統が入って、両方の系統が並存してきたというのです。とすれば、我が国の養蚕のはじまりは中国の揚子江下流域の華中から伝わったものと考えられるでしょう。
   その中国では紀元前2750年ころの揚子江流域の遺跡から草木灰で精錬した艶のある絹布が出土しています。布は経糸も緯糸も撚りのない生糸で織られており、高い織物技術をもっていたことが分かります。また、紀元前5000年頃の揚子江下流の河姆渡遺跡からは6匹の蚕の線刻が刻まれ祭祀用の杖の頭部が出土しています。明らかに養蚕が行われていたことを示す品です。
   このことは揚子江流域においてはるか昔から養蚕が行われていたということです。そして、そこに暮らしていた人々は、のちに『呉越同舟』の言葉にもなった『呉』や『越』の国を形成していた百越の人々であり、中国を支配した漢民族とは異なっています。彼らは漁労や水運に長じ、黒潮にのって舟で日本へ到達することもあったでしょう。風に恵まれれば黒潮にのって二日もあれば五島列島についたとも言われます
   ちなみに中国の史書によれば、紀元前4〜5世紀の戦国時代に越や呉が漢人によって滅ぼされ、大量のしかも広範囲の人々が海に向かって逃げたと記されています。そのうちの一部は東シナ海を突っ切って日本へ逃れたと考えられます。彼らが養蚕を始めとする揚子江文化を持ち込んで日本の弥生時代を形づくったとしても不思議ではないでしょう。